ねこの消えた日｜リアクション

ねこの消えた日

　九夜山の山中に、少し離れて存在する落神神社と寝子島神社。古び寂れた落神神社は、最近誰かが手入れをしてくれたのか、ちょっとだけきれいになっているような気もする。それでも、管理するものがいない現状には変わりなく、濃い森の影に覆われて少し不気味ともいえる雰囲気を漂わせていた。真央と空音は振ってもたいして音のしない鈴を鳴らし、手を打ち、頭を垂れ、祈る。
「早く■■の字が、戻ってきますように！」
「お■がいします！」
二人の願いの言葉にも穴が開いたままだ。切れ切れの言葉は、神頼みの力を発揮してくれるだろうか？　そうであることを信じて、真央と空音は顔を上げる。
「次、いこっか」
「■■島神社……ううん、おっきな神社の方にも行くのだ！」

　朝起きると、声を聞いたという記憶が残っていた。『ね』と『こ』が、島にしばしの別れを告げた声。大天使天吏は頭の中で聞こえた言葉を繰り返す。
『旅に出ます』
思い出せない何かが旅に出たことで、何かが欠けた。もれいびである天吏にはそのことがなんとなく分かっていた。思い返せば、声はどこか疲れた人のような響きだった。生きるのに疲れたというわけではあるまい。声はどちらかというと幼いもののような印象だった。それならば……
「……家出？」
（それともけんか？　何かに反発して？）
天吏は手元の本を開く。開いたページに縦に並ぶ文章の、あちらこちらが黒いしみのようになって読めなくなっていた。内容は覚えている。だから、なくなっている文字が何であるのか――具体的に思い返すことはできないが、少なくとも五十音で考えてどの辺りの文字であるか――は予想がついた。天吏はしまっておいた資料を取り出す。開いた紙には万葉仮名が書かれていた。ひらがなは漢字を崩した形から生まれている。『安』の字の下には『あ』があり、『加』の下にはその漢字から生まれた『か』が書かれていた。ひらがなが穴になっている場所は二つ。それぞれの穴の上には『祢』と『己』の漢字があった。文字の正字や、意味も合わせて書かれている。
（……変わった字）
二つとも、なじみのない漢字だ。ただの記号のようにすら見える。ところが、消えた文字に関係あるものだと考えて見ようとすると、とたんに焦点が合わなくなってきた。穴にはならないが、目がすべる。まっすぐ見て、認識するのが難しい。
（……祢の正字は禰、読みは『みたまや』。己は『おのれ』と読む字）
違う読みを頭に刷り込み、消されないように抵抗する。
「……家出じゃなかったら、はん■うき？」
反抗期、の言葉は正しく形にならなかったが、天吏は考える。反抗する対象は親。文字の親ってなんだろう。ひらがなの親……。先ほど見た、ひらがなの原型、漢字はどうだろう。『みたまや』は霊廟、魂の安らぐ場所。『おのれ』と読める『己』の字は、身を縮める人の姿だ。
「……お墓で祈ればいいのかしら？　いえ、もっと霊的な場所……神様が集う場所」
天吏は己の心が向くまま、制服姿で寝子島神社へと足を向けた。

　いまや『■■島神社』となった寝子島神社は名前を失っているせいなのか、参拝者もおらず閑散とした空気が漂っていた。不自然なほど人の気配がない。社務所の人々もどことなくよそよそしい雰囲気にすら思えた。鳥居の赤い色すら物寂しい境内に、天吏はひとり立つ。
「……彼らの、親のようなものがいれば、だけど」
つぶやいてから、祈りを捧げる。存在するかどうかもわからない、不確かな存在を思いながら。
（二人は疲れているだけだと思います。私たちは、一日ぐらい二人がいなくても、だいじょうぶ）
（だから……■と■が帰ってきたら、一緒にお帰りと、それだけ言ってあげてください）
ふと、背後に人の気配を感じた。
「……だれ？」