海の家『みなとねこ』の一日　《夏本番編》｜リアクション

海の家『みなとねこ』の一日　《夏本番編》

　賑わう海水浴場から少し離れた岩場に立つ。肩に提げて来たクーラーボックスを置き、折り畳み椅子を設置する。リュックサックを脇に、伸縮式の釣り竿を伸ばして太陽の光さざめく波間に釣り糸を垂らせば準備は完了。
　眩しく照り付ける夏の陽を仰ぎ、八神修は唇の端を僅かに上げた。
　今日も暑くなりそうだ、と椅子にかける。元より真剣に釣るつもりはない。遠い賑わいと波音を背景に、今日はのんびり羽を伸ばそう。
　気楽な雑誌じみて開くのは、化学の参考書。
(本分だし受験生だからな)
　友人に見つかればまた叱られるかもしれない、と思いつつ、修にとっては参考書と問題集が傍らにあることが日常であり落ち着きのもとでもある。
　浮きが動いたことにも気づかず化学式を目で追う。
　ふと耳に届いた波音にちらりと目を上げ、
「……おっと」
　沈んだ浮きを捉えて釣り竿を手に取る。釣れた小魚は海水を汲んだクーラーボックスの中に放り込む。
(うちのシェフに南蛮漬けにでもして貰うかな)
　そんなことを考えつつ幾度か釣り糸を垂らしていて、
「……ん」
　陽が傾く頃には問題集の最後の一問を解き終わってしまった。名残惜し気に問題集を閉じ、勉強道具を鞄に仕舞う。日差しの中で文字を追っていたせいか若干ちかちかする目を閉ざして眉根を揉み、両手を青空に伸ばす。
(そろそろ休憩だ)
　釣り竿と折り畳み椅子も片付け、鞄とクーラーボックスを肩に向かうは、海の家『みなとねこ』。
　時々水溜りに残された小さな生き物に目を細めながらも危なげなく岩場を離れ、水着の人々で溢れる海水浴場を横切って『みなとねこ』に入る。小上がりの入り口に荷物を預け、タオルを借りて水着を購入する。温いお湯しか出ない狭いシャワー室で水着に着替え、トタン屋根からの熱が籠る廊下を渡って露天風呂に出る。
「あれ、八神君」
「ん、恵御納」
　舟形の湯舟の縁に両手と顎を乗せ、ついでに肩と頭に猫を乗せてご満悦な水着姿の夏朝とばったり顔を合わせ、修は微笑んだ。
　バイトの休憩時間らしい夏朝は、ひとしきり海で泳いだ後に温泉を楽しんでいるのだという。
「猫さんと一緒にお風呂、いいよね……」
　すぐ隣でぷぷぷと顔を振る猫の飛沫を浴びても気にもせず、夏朝はふわふわと頬を綻ばせる。
「そうだな」
　ご機嫌な夏朝に頷き返し、シャワーで砂と汚れを流して湯舟に身を沈める。舟形湯舟の縁に背中を預けて身体を伸ばせば、頭上に広がる鮮やかな夏空が見えた。
　縁を足音もなく歩いてきた猫に不思議そうに覗き込まれ、ぺたりと肉球で額に触れられ、修はくすりと笑みを零す。
「いいよね……」
「うん、いいな」
　夏朝の何度目かの呟きにしみじみ応じ、修は猫たくさんの温泉を堪能する。温泉から上がったら食堂の小上がりでかき氷でも食べながら風に当たろう。縁側に寛ぐ猫たちの写真を撮らせてもらおう。
(可愛い写真がたくさん撮れそうだ)
　ぱしゃぱしゃと猫泳ぎで近づいてきた猫を何気なく抱っこして、初めて気が付いた。広い湯舟の真ん中に、いつの間にか黒髪の女の子が静かに座している。
「猫さんかわいいのですー」
　修の視線に気づき、エロはふうわりと瞳を細めた。同意を示す修にこくりと会釈して、エロは昼下がりの温泉をのんびり楽しむ。
「あとでごはんあげるのですー」
　気まぐれに寄って来ては頬ずりして去る猫に夢のように微笑み、エロはおっとりと言った。食堂には猫用のおやつも用意されている。温泉のあとのおやつはきっととても美味しいだろう。猫には猫のおやつ、エロにはかき氷。
　おやつが終わったら小上がりでお昼寝をしよう。さっきも小上がりで熟睡していたこんがまだ寝ているようなら、隣で眠るのもいい。
「お昼寝してー、またおばけさんに会いに行くのですー」
　鼻歌じみたエロの言葉に、修は瞬いた。聞けば、月夜の砂浜に蒼い髪の少年幽霊が出る噂があるのだという。海の家の雇われ店長の家族のひとりが、そのお化けに会うために肝試しをするのだと。
「蒼い髪の少年、か……」