突然の決戦は寝子ヶ浜海岸｜リアクション

突然の決戦は寝子ヶ浜海岸

　朝日が照らす海岸沿いの歩道を志波拓郎は一人で走っていた。流れる汗は青いリストバンドで拭った。無地の半袖シャツの裾が風ではためく。速乾性の高い素材を思わせた。
「仕上げは、砂浜で、と」
　右手の防風林に向かって軽々と跳んだ。木々を抜けると水平線が広がった。拓郎は緩やかな風を吸い込み、安らいだ顔で吐いた。
「ん、なんだ……」
　拓郎は走る足を止めた。波打ち際の一点に睨むような視線を送った。
　横顔は若い女性に見える。砂地に腰を下ろした状態で後退りしていた。両手と脚の動きで懸命に逃げているように映った。
　拓郎の目が透明に近い物体を捉えた。驚きの声を上げる前に身体が動いた。砂地で走る足が取られる。
「ダメなら……これで、間に合う、か」
　走りながら両頬を軽く叩いた。砂の抵抗に負けない力で足を動かして、見えない踏み切り板から跳躍した。
　空中を走るように跳んで一気に女性との距離を縮めた。相手の側にしゃがむと思案顔になった。
「こんなところで、どうして、その……」
　拓郎の言葉を待ち切れず、女性は抱き着いてきた。ふいに上体を引っ張られ、慌てた右手が間近に迫る物体の内部に入った。リストバンドは瞬時に溶かされた。
　内心の動揺を表情に出しながらも決断は早かった。
「ま、まずは、逃げます」
　拓郎は女性を横向きに抱えて立ち上がる。自然な流れで首には細い両腕が回された。振り返ることなく、まずは防風林を目指して走った。一度は引いた汗が全身に舞い戻る。
「あの、汗臭く、ないです、か？」
　拓郎は正面を見据えて走っていた。胸元にあった女性の頭が否定で振られる。少し遅れてか細い声が返ってきた。
「……ありがとう」
　拓郎は何も言わなかった。ただ顔を真っ赤にして足を動かした。

「ここまで来れば、大丈夫だと……思います」
　拓郎は女性を木の根元に降ろして言った。
　怖い思いをした影響なのか。女性は小さな子供がするように、こくりと頷いた。
　二人に沈黙が訪れた。拓郎は口を開き掛けては閉じる。頭の中の考えが上手く言葉に出来ないようだった。
「たー坊、なんか楽しそうなことに巻き込まれてるじゃないか」
　左手を大きく振りながら志波武道がランニング姿で現れた。
「こ、こんなところで、その呼び方は、やめろ」
「照れなくてもいいのに」
「だ、誰が――」
　拓郎の反論を断ち切るかのように武道は女性に向かって片膝を付いた。
「紹介が遅れました。たー坊のお兄さんを長年に渡ってやっている武道と言います。食べる方のブドウではないので、残念ながら友達にマスカットはいません」
　武道の真面目な態度に女性は口元に軽く手を当てて笑った。瞬く間に緊張は解れた。
「本当は笑ってる場合では、ないですよね。でも、助かりました。あの奇妙な生物に驚いて足首を捻ってしまって」
　女性は二人を交互に見て、拓郎に深々と頭を下げた。
「あ、そんな。男として、当然の、ことなので」
　片言の言葉ながらも拓郎は女性に真摯な目を向けた。
「捻った足首を見せてもらってもいいかな。こんな軽そうな俺でも応急処置くらいの知識はあるので」
　武道は拓郎に視線を送る。頼む、と即座に返ってきた。
「よぉーし、お兄ちゃん張り切って、たー坊の好感度を上げちゃうぞー」
「だから、その、恥ずかしい呼び名は、やめろって」
　耳に届いていないという態度で武道は女性が差し出した足首に視線を落とす。
「酷い腫れはないみたいだな。少し熱はあるかな。冷やすものは海水くらいだけど、今は危ないか」
「あの、ケータイを持っているので家に連絡して迎えに来てもらいます。厚かましいとは思うのですが、道路までお願いできますか」
「じゃあ、足の痛みをなんとかしようか」
　気負いなく、武道は女性の足首を軽く指で突いた。先に立ち上がって手を差し伸べる。
「お手をどうぞ」
「え、なんで。痛くない？」
　女性は立ち上がって不思議そうに自分の足首に目をやった。
「あまり無理はしない方がいい。応急処置で痛みが一時的に引いてるだけだから」
「そう、なんだ。初めての経験で、びっくりしました」
「ほら、たー坊。肩を貸してやりなよ」
　お、おう、と拓郎は中腰に近い姿勢で肩を貸した。とても窮屈な姿勢なので、大丈夫ですか、と女性は不安げに声を掛けた。
「自分、身体は鍛えて、いますから」
「今回は特別だ。たー坊の得意のお姫様抱っこを許そう」
　拓郎は耳たぶを赤くして砂を何度も蹴り上げた。その先では武道が、怪我人を労われよ、と楽しそうに走り回っていた。

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突然の決戦は寝子ヶ浜海岸

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