寝子島呪刀奇譚｜リアクション

寝子島呪刀奇譚

　買い物帰りの、歩き慣れた道。
　角を曲がった花厳望春の目に飛び込んだのは、地面に突き立つ一本の刀だった。
　目を瞬かせる間に、刀が落とす影からずるりと這い出る黒い人影。
　細身の侍のようなそいつは、柄を握ると音もなく刀を引き抜いた。
　振り上げられた刃が、夕日に煌めく。
「ちょ、」
　やっと出た声は、刃が風切る音に断ち切られた。
　咄嗟に振り回したのは、買ったばかりの新品の傘。辛うじて防いだ直後、今更のように総毛立つ。
　急にうるさくなったのは、恐らく自分の鼓動の音だ。
「っ！」
　二度目の一閃を回り込んで回避して、望春はそのまま走り出した。

　やがて辿り着いたのは、路地の奥にある空き地だった。
　立入禁止のロープを飛び越えると、買い物袋を投げ捨てて向き直る。
　追ってきた侍が、ロープを無造作に切り捨てるところだった。
　他の人のところに行かなかったのはいいが、どうすればいいものか。
　剣道の要領で応戦しようにも、武器は傘が一本きり。まともに受ければ折れるし、最悪傘ごとばっさりだ。
　その場面を想像すると、全身の肌が痺れて冷たい汗が止まらなくなる。
　それでも、やるしかない。
　棒付きキャンディを一本くわえ、傘をきつく握って構えを取る。
「……さあ、来い！」
　侍の血眼が、猛り笑う。
　獣が飛びかかるが如き踏み込みからの、弧を描く袈裟懸けの一閃。
　横薙ぎに傘で払って、切っ先を外へと流す。
　続く一撃が、望春の額を薄く割く。飛び退く彼の視界に、前髪と小さな血の玉がゆっくりと舞い散った。
　侍が、斬上げた刃を返す。
　振りかざしたその出がかりに、小さく鋭い打突を見舞う。
　一拍遅れた隙に下がれば、眼の前を斬撃が通り過ぎていく。
　振り下ろした刃を返す瞬間、侍は右手を放した。
　踏み込む。
　左手一本の横薙ぎが、伸びて望春に喰らいつく。
「ぐっ、ぁ……！」
　ギリギリで傘を構えて、それでも全身に走る鈍い激痛。
　傘が悲鳴をあげて、骨の部分がわずかにひしゃげる。
　刀を振り抜いた侍が、突きの構えへ移るのが見えた。
　その口元には、これから獲物を貫く喜びの笑みが浮かんでいた。
　その目には、望春は哀れな獲物としてしか映っていない。
　仕掛けるなら、この瞬間だった。
「シキさん、お願い！！」
　《飴とムチ》、発動。
　侍の後頭部に、一羽の鷹――シキさんの影が落ちる。鋭い鳴き声が鼓膜を突き刺せば、彼とて振り返らずにはいられない。
　シキさんが鋭い爪を突き出すと、さすがにたまらず一歩身を引く。
　すかさず、望春は絶叫と共に踏み込んだ。
　傘の石突に全体重を乗せて、全力をこめて侍の脇腹へと突きこむ。
　あまり気持ちのよくはない、けれど確かな手応え。
　かはっ、と。侍がかすれた呻きをあげた。
　その身体がくの字に折れたところへ、
「――これでっ！」
　思いっきり助走をつけた飛びかかりからの、大上段の振り下ろし。
　大きくよろめいた侍が、そのまま数歩後ずさる。
　その直後、彼の身体は刀ごと、靄のようになって消えてしまった。
「なんだったんだ、今の……」
　自分でもそうとわかるくらい、呆けて疲れた、呻くような声。
　安堵がどっと降り注いで、身体が急に重くなる。
「そうだ、シキさん。ありがと、助かった……よ」
　尻すぼみになった感謝の言葉に、シキさんが不満そうに一声鳴いた。
　けれど仕方のないことだ。
　だって、気づいてしまったのだ。
　手にしていた傘が、曲がったり折れたり、破れたりしていることに。
　この傘、姉から買って来るように頼まれたものだ。
　しかも、お店にあったのは、この一本が確か最後。
「なんて言い訳しよう……」
　望春は、自分の血の気が引いていく音を聞いたのだった。