猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　木々の間に不審な陰がないか。ひょっとして人の中に隠れていはしないか。辺りを見回し、時折煙をふかしながら歩く宇佐見満月は、木の陰に小さな人の形をしたものを見た。
「士君、あれ！」
腕を引かれて邪衣士もすぐに気づく。駆け寄る先の人影は逃げる様子はない。小さな子供のような『それ』と目が合ったとき、満月はめまいのような感覚を覚えた。煙草の煙の間に見えるのは、もういない父と母の姿。像を結び、またほどけては、かなわぬ夢のように現れ、こちらに手を伸ばす。
「満月。かわいい満月……」
娘の名を呼んだ瞬間に、微笑を浮かべた父の幻は脳天から木刀で断ち割られ、煙にまぎれて消えた。自分の振り下ろした木刀が地面をうがつ激しい音と衝撃で、満月は目覚める。思わずくくく、と笑いが漏れた。
「……あんた、しくじったねえ。両親は一度だって、あたしのことマトモに呼んだ試しはなかったんだよ！」
結んだ手首の先が重いのに気づいて隣を見やる。
「士君！　ちょっと士君！　目を覚ましな！」

　士は混沌の中にいた。猫鳴館を舞台に、怪奇な植物が暴れ、寮生たちが駆け回り、鶏が飛ぶ。おまけに寮外で起きたはずのあれやこれやまでがひとつところに集まっていた。
「おい、」
誰も士に気を止めない。鶏が飛んできて頭に止まった。爪が痛い。
「幻覚だよな？　これ」
腰にどすりと衝撃が走る。振り向くと機械仕掛けのサンマのおもちゃが刺さっていた。
「おい……」
答えることなく、妖怪のコスプレをした群集が走って来る。一人がけらけらと笑いながら、狐の面を取り外し、士の顔に叩きつけた。目の前が赤くなる。

　そりゃあカオスな出来事なんて、日常みたいなものではある、が――。これが自分の心を映したものだというなら、あんまりに過ぎた。混乱を極める風景の中に、とどめのように現れた実の父親の姿に、士の何かが完全に切れた。父親は能天気に笑いながら、手を振っている。
「くっっそ親父いいい！」
「ひゃっ!?」
狐化かしに屈したかと思われた士が突然我に返ったかと思えば、ついぞ見ないほどに興奮し、凶悪な表情をしている。これにはさすがの満月も驚いた。
「……満月ちゃん！　包帯、切りますよ！」
言うや士は二人の手首を結ぶ白い布を断ち切った。そのままうなり声を上げて、人影のいた方向へと士は走り去って行く。
「あ、ああ、ってちょっ!?　どこ行くんだい！」
「カオスにも程があるだろ。どこにいるんだクソ狐！」
走る方向が、若干間違っていた。

　川から少し離れた小高い位置に旅鴉月詠は立つ。橋の下、猫又川の常ならざる光景を冷静に見つめながら、隣に立つ少女に言った。
「ここなら大丈夫そうだ。では舞華。頼む」
「かしこまりましたわ。お任せください、月詠さん」
声の主は月詠が抱えるメイドの一人、檜扇舞華。小柄な方だが、それでも主人の月詠よりは少しだけ背が高い。結ってもなお豊かな赤のツインテールを弾ませて、元気よく答えた。
「では始めよう」
月詠は狐の面が描かれた絵を取り出して、躊躇なく引き裂く。ろっこん『絵空事』によって絵に封じられていた数々の道具が出現した。月詠はロープを手にとって、傍らの木にしっかりと命綱として結ぶ。その綱のもう一端を舞華は自分の体に結わえつけた。救命胴衣を身につけ、さらにそれだけでは足りぬとばかりにジャケットの外側に空のペットボトルをつけて行く。

「私は川には入れない。幻術を見るわけには行かない」
「ええ。月詠さん、運動能力はごく普通ですからね。無理はさせられません。命綱の面倒をお願いします」
「すまない。任せるよ」
「はい！　あたしでしたら、平気ですもの」
答えながらもすでに舞華は水没しつつあるはげ頭を目標に捉えている。男は少しも苦しそうではない。安らかな夢を見ているかのように目を閉じ、ざぶん、ざぶんと流れに洗われている。