猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

「畜生が！　おっさん！　目を開けろおっさん！」
　誰よりも早く、一目散に『化かされおっさん』へと神無月文貴は近づいていた。川に一歩足を踏み入れた途端、何かに足をつかまれたかのようにがくりと衝撃が走った。

「なっ!?」
いきなり川が深くなる。両足がずぶずぶと川底に沈み、衣服に水が染み込むいやな感覚が伝わってきた。だが文貴はそんなことには構ってはいられない。娘を助けなければいけないのだった！　目の前で、幼い愛娘は無邪気に川遊びをしている。
「だめだ！　戻って来い！」
違う。違う。これは幻だ。文貴は必死に抵抗しようとする。だが娘の姿を映す幻は、彼の心を乱し続ける。
「くそおっ！」
幻影と戦いながら、文貴は携えてきた刀を前に掲げた。鞘をずらすと、現れ出た白刃が光を放つ。刃の輝きに導かれるように、文貴の視界は現実を取り戻す。娘の姿ではなく、川に沈み行く中年男の頭が見えた。新たな幻が彼を捉える前に、文貴は刃を握り締める。研ぎ澄まされた刃が手のひらに食い込み、赤い血が流れる。
「これしき、どってこたぁねえ……」
川の水に洗われ、手のひらからはどくどくと血が流れて行く。だが文貴はひたすらに男を目掛けて進んだ。もうすぐ手が届く。指先が触れるすんでのところで、男の頭は水面から消えた。
「おっさん！！」

「イリュージョン！」
　ライフジャケットに触れ、男を指差して檜扇舞華は叫ぶ。『魔法的御召し替え』の力で、舞華のジャケットと濡れそぼった甚平が瞬時に入れ替わった。濡れて汚れた衣服の感触が気味悪くて、舞華は悲鳴を上げながら脱ぎ捨てる。ついでにメイド服も脱ぎ捨て、水着姿になった。
「今です！　おじさんが浮かんでいるうちに早く！」
男の間近に迫った文貴に呼びかけながら、舞華も川に入る。

　予想通り、彼女の元にも狐化かしは訪れた。だが、本人が大丈夫だ、と言った通り……人の心に潜むものを映し出す幻は、舞華に実質何の害も与えることはできなかった。
「あらあらやっぱり。あたしの場合こうなっちゃうのね」
にっこりと笑って舞華は川を進む。周囲を取り囲むのは彼女の趣味の世界、アニメーションに登場する可憐な妖精や、女性の理想をたっぷりと詰め込んだイケメンたちだ。
「ふふふ。いい眺め、眼福だわ。でも残念ね、あなた方どうがんばっても、二次元の住人ですもの。三次元人が声を当てなければしゃべることもできないでしょ？」
幻を楽しみながら、命綱を頼りに川にはまりかけた一般人を引きずり上げて行く。
「応援ぐらいはしてくださいね。アテレコはまたの機会に」
惑わされたりなんてしない、だって現実はあたしのこの手の中にあるのだから。舞華は命綱をぎゅっと握り締める。