猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　男は夢を見ていた。
おとうさんとよぶかわいい息子の声。妻の声。冷たい水の代わりに自分を包むのは家庭の温かさだった。ずっとこの夢を見ていたい。醒める時があるならば、また次の日に同じ夢を。夢の終わる日が来るならば、もうそれは今日であってほしい。

　化かされおっさんを助けに入るならば、狐化かしに間違いなく遭ってしまうだろう。それを知ってなお、市橋誉も猫又川にやって来ていた。騒ぎを聞きつけ、放ってはおけなかった。むしろ、なぜ今まで、近隣のものは誰も男を助けようとしなかったのか。旧市街の人々には言ってやりたいこともあったが、今はひたすら、騒ぎの中心だけを目指した。
（俺が狐に化かされるのなら……きっとあいつ、義兄のことだ。他にあるもんか）
何を見るかは想像がつく。ならば己の精神力次第では、抵抗できるかもしれない。誉は自分を信じ、自分に挑むと言う決断をした。

　はるか向こう、川の中に男はいた。ほとんど沈みかけている。助けに入っているものもいたが、一人や二人では引き上げるのは難しそうだ。浮き輪を持って駆けつけるものもいた。誉はすぐに救助に手を貸す。見知った顔も多いのに、誉は彼らの顔を一時失念する。目の前にある光景が、頭の中で予想していたものに置き換わっていくのを実感しながら、誉はそれを止めることができなかった。
（これ……幻影……だよな？）
誉は、自分の心を映す世界の幻影に飲み込まれる。
思った通り、願った通り。義兄、幼馴染、兄とは呼びたくない、近すぎる存在がいた。自分に向かって語りかけている。ピアノの調べにまぎれて、はっきりと聞こえないけれど、誉には彼の言葉が理解できた。

「――俺に会いに来たって？」
こんなところに、わざわざ？
「え？　音楽を辞めることはなしにしたって？」
本当に？　あんなに頑固だったのに？　俺が、どんなに、いやな顔して、いやな態度をしてみせても変わらなかったのに？
優しい笑みが向けられる。誉、と呼ぶ声が聞こえた、気がした。

「本当に、またあいつのピアノが聴けるなら……ははっ、どんなにうれしいんだろうな……」
思わず声に出る。幻のほころびを、誉は逃さなかった。
「違う！　あのバカ兄貴は……、そんな簡単な奴じゃない。こんな風に考えを変えてくれる奴なら、俺はこんな思いなんてしなくて済んだ！」
気づくことはほんの少しだけ寂しかった。自分がそう感じるだろうということも、わかっていた。だからなおさら、それにつけ込もうとしてくる幻が許せなかった。
「俺の思いを、こんな苦労を簡単に帳消しにする奴が兄なもんか！　お前はニセモノだっ！」
兄の顔をした『もの』が優しげな顔や悲しげな顔をして、なんとか注意を惹こうとする。もはやそれらをすべて無視して、誉は目指していたはずの方向に歩き出した。この足元は、川のはずだ。目の前には、同級生や町の人、自分が助けようとしていた男がいるはずなのだ。
「……俺の兄貴のピアノはもっと美しいよ」
そう吐き捨てると、幻の世界は誉に屈した。もう惑わない誉は、惑う赤の他人を救うため、手を差し伸べる。