猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　奇妙な物語の合間にカップに注がれた紅茶は、美しい紅の色。
「お召し上がりくださいませ。……それにしても、本当にいつもちくわをお持ち歩きになっているとは驚きましたわ……今の季節だと、鮮度が心配になってしまいます」
イルマ・サトウは頬に手を当てて、心から心配している様子だった。給仕を終えて、ブリジット・アーチャーの隣に腰掛ける。
「ちくわは問題ないんだ。問題はあの怪奇現象だよ！　特殊な、ううん、悪意あるろっこんの攻撃かもしれない。ミス研で調べてみるのってどうだろう」
「陰謀がどうより、ちくわをシュノーケルにするっていうすばるの発想に驚きを禁じえないわ。……ん、どうかした？　イルマ？」
「はい……場所が猫又川と言うことで、ちょっと気になることが」
言いかけたイルマの言葉は、新井すばるの描く恐怖と不安の物語にかき消される。
「あれが夢や幻覚だったとしても、あまりにも不吉だよ！　洪水に飲まれる夢って恋愛運低下って言うし……この間の占いの結果、悪くてさ、そういう暗示的なの怖いんだよね……」
しおれた草木のようにうなだれるすばる。
「恋愛運？　なるほど、そのようなお話だったのですね……」
イルマは言葉をさえぎられても気分を害した様子を見せることもなく、親身になってすばるの話を聞く。
「私自身は運命に導かれた出会いは、とても素敵なものだと思います。憧れを抱くこともありますが……」
と、ちらりと隣のブリジットを見やると、すばるに対して呆れた表情を注いでいた。
「お嬢様は占いや運命といった、はっきりしないものはお信じにならない方ですから」
「すばる……あなた、疲れてるのよ」
ブリジットはしょげるすばるの肩にぽんと手を置く。
「あなたの考えが正しくないとは言わないわ。そういう可能性もあるでしょう。ミステリ研としては真偽を問うための調査も必要かもしれないわ。ただね。今日、私は陽炎揺らめく炎天下に出て行きたくない」
「そんなぁ……ボク、確かに見たんだよ。ブリジットさんの偽者！」
「はいはい。恋する占い大好き乙女ならともかく、男子が恋愛運低下とかなんとか、そんなことでくよくよしないの」
世話の焼ける弟に姉がしてやるように、ブリジットはすばるの肩をぱたぱたと叩いてなだめる。ほほえましくもちょっぴり情けない光景を見ながら紅茶のお代わりを注いでいたイルマは、ポットを置き、小さく胸の高さに手を挙げた。
「あの……私の考えを申し上げてもよろしいでしょうか」
「ん？　なんだい？」
「ええ、いいわよ。言ってごらんなさいな」
「ありがとうございます。もしかすると、すばるさんは猫又川の狐に化かされたのではありませんか？」
イルマの推論にすばるはうろたえる。
「き、狐……？　そういえば、そんな噂聞いたことがあるけど」
「はい。なんでも、化かしやすい人間を狙って、川に誘い込んでしまうのだとか」
「なるほどね。……すばる、あなた憑かれてたのよ」
「そ、そんなあ!?」
「どうやら、それで当たりのようですね……」
「そんなーーーーーー!?」

　男は昨日のことを思い出す。
気がつくと、胸の上まで川に浸かっていた。冷たい水が体を洗う。甚平の紐は解けてはだけ、ゴムサンダルは片方流されてしまっていた。視界をさえぎるものを手で退けると、残り少ない髪がぺったりと後頭部に張り付いた。川端には旧市街の人々。心配そうな顔の者もいたが、多くは気味悪そうにこちらを見ているだけだった。げらげらと指差して笑う者もいた。
「へへ。また……化かされちゃいました」
すまなそうに笑って頭を下げる。こうしておけば、たいていのことはうまくいくのだ。またあのおっさんか、仕方ないな。それで済むのがありがたかった。薄ら笑いを浮かべ、よろけながら川岸を目指す。早くみんなが自分に興味を失って立ち去ってくれればいいと願っていた。その時男は、人ごみをかき分けて何者かが現れるのを見た。顔に目立つ傷、腰に木刀を差している。
「おう、どけどけ！　ただ見てるだけで何もしねえのかよ！」
男を見世物のように眺めていた烏合の衆に一喝する。まるで人斬りのような殺気を放つ毒島柘榴の凄みの効いた一声に、人々はおじけづき、そそくさと散っていった。柘榴は「けっ、人でなしどもが」と野次馬に吐き捨てると、着ている物が汚れるのも構わずじゃぶじゃぶと川に入ってくる。
「ほらよ。おっさん、手」
中年男はぽかんと柘榴を見ていた。柘榴はじれたように差し出した手を上下に振る。
「手だよ！」
自分よりはるかにたくましく、大きな手を、男はようやくつかんだ。

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猫又川の狐化かし

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