猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　男は毒島柘榴の手を思い出す。もう三十年以上、ずっと見てきた近所の少年だった。たくましく成長し、妻と娘、かけがえのない家族を手に入れて、今は薬局『アネモネ』を経営している。強くなりたい、と目にいっぱいの涙をためて誓った線の細い少年は、誓いに違うことなくすべてを克服した。たちまち男の身長を追い越し、今では並ぶもののない剣術の達人にもなった。
「柘榴くん。強くなったね。優しくなったね」
うれしいけれど、なぜか寂しくもある。もう届かない昔の思い出を噛み締め、男はひざを抱える。

　そのころ、柘榴もまた『化かされおっさん』のことを思い出していた。
「おっさん……なんでなんだよ。俺に『優しく、強くなれ』って言ったじゃねえかよ。……なんで言った本人は弱ぇままなんだよ……」
柘榴の記憶は過去に飛ぶ。今と違って病弱で、細くて、髪は銀色、目は赤かった。かくれんぼにも、ヒーローごっこにも参加できない柘榴は、同年代の少年たちにとって、絶好のからかいの対象だった。
「やめなさい。違っているからいじめるなんて、恥ずかしいことだよ」
そんな時現れた『おっさん』は、いつもより毅然としていた。昔から化かされ男として知られていたから、悪ガキたちにもなめられ、ぽかぽか叩かれて、すぐ元の困ったような笑い顔に戻っていたけれど。
「化かされ男のくせに何言ってんだ！」
「どけよ！　バーカ！」
押されても蹴られても、小さな柘榴の前に立ちはだかって、決していじめっ子たちを通そうとはしなかった。そのうち単純ないじめに飽きた子供たちは悪口を叫びながら去って行った。男なのに、強くない、男なのに、守られてばかり。それが悔しくて、柘榴は涙をこぼした。泣く柘榴の頭に大きな手が置かれる。
「やり返したり、大声で泣いたりしなかったね。強い子だ」
そんな時の男は、本当に暖かな笑顔を浮かべていた。小さな柘榴には兄のようであり、師のようにも感じられた。あのころは20代前半だったはずだが、すでにもうおっさんくさかったな。柘榴は笑う。
『弱さを知る人が本当に強いんだ。優しく、強くなりなさい』
それは柘榴を導いた言葉のひとつ。だが彼が大きくなり、見違えるほど強くなったというのに、男は何も変わらない。ただ歳を取って、ずっと狐に化かされ続けて、変わらず世間に笑われて過ごしているだけのように見える。優しい笑顔は侮られる原因にしかなっていなかった。恩人がそんな仕打ちを受けていることに、柘榴はがまんがならなかった。

だから柘榴は昨日尋ねた。川から助け出したときに、男に疑問をぶつけたのだ。
「なあ、おっさん。なんであんな言われ放題になってるんだよ!?」
「へへへ……耳が痛いよ」
いつもの人のいい、少し情けない笑い。好きだったはずの笑いが、今は心をいらだたせる。
「立派になったね、柘榴くん。誇らしいよ。僕みたいなおじさんにも親切にしてくれて」
「……俺はおっさんにも、自分のこと誇ってもらいてえんだよ。これ以上は命に関わる。狐につきあってやるのはやめろ！」
「平気だよ。川は今冷たくないからね」
「そうじゃねえんだよ！　俺が毎度助けに来られると思うなよ!?　それとも何かわけがあるのか。あるなら聞かせてくれよ……」
男はへへへ、と笑うだけだった。少し困り顔になる。
「ありがとう。でも、僕はこれでいいんだよ。人にはそれぞれ、役割ってものがあるんだから」
最後の男の言葉を思い出し、柘榴はぎりりと奥歯をかみ締めた。
「化かされてただ溺れるのが役割なんて、俺は認めねぇ。明日もまた行くなら……俺も考えがある」

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