猫又川の狐化かし｜リアクション

猫又川の狐化かし

　弘明寺能美子もまた、同行していたはずの桜庭円の気配を失う。感覚をすべて幻に塗り替えられる前に、能美子は自ら川の中に入った。人ごみを避けて一人立つ。たちまち回りの音が遠くなっていった。
（――来たわね）
スタジオ、学校、自分の自室……能美子をもっとも深く閉じ込めるステージはどこか、まるで探っているように、狐化かしは次々と光景を切り替えて行く。
（私は、こんなものに、だまされない）
壊れたピアスを握り締める。狐化かしに囚われる前に、手のひらを開いてピアスをじっと見つめた。ちぎれた金具、欠けたストーン。ピアスがちぎれ、はじけ飛んだあの日のことを思い出す。『ノジカ』という名を持っていたころのことが、幻でも、ろっこんの力でもなく、つぎつぎと現実の連想として思い出される。華やかだったころの自分の過ごした日々、すべてがトラウマとなっている淀んだ時間。能美子はただ、『思い出す』。自ら目をそらし続けてきた過去を。
（他人が見せてくる過去より、誰より自分が知る自分の過去の方が強いって――信じてる！）
もう過ぎ去ったこと、能美子の心に爪あとを残した出来事、どうやったらこれ以上彼女を惑わせるというのだろう。
「これ以上ひどいこと……見せられるものなら見せてみなさいよ」
本当なら、見たくない過去だった。もう向き合いたくない。腹の底からこみあげてくるむかむかしたものと能美子はひとりで戦った。もはや能美子の敵は狐の妖怪などではなく、自分自身のたどってきた道だった。
振り向くと、ひざまで川に浸かって、悲しげな目をさまよわせている円がいた。むかつきが収まらないのも無視して駆け寄る。
「桜庭さん！　桜庭さん！　大丈夫!?」
「――いたっ」
テープで手のひらに留めていた押しピンが、皮膚を貫き痛みを与える。円は現実に帰って来た。両肩を抱くように、心配そうに見つめる能美子が目の前にいた。痛みだけではなかった。友が自分を呼び戻してくれていた。それを理解して円の心は温かくなる。
「……のみこ、ちゃん。呼んでくれてたんだね」
「うん。……うん。と、とりあえず、川から上がりましょう。化かされている人がいたら、何とかして起こすの」
「うん、わかった！」

「……土左衛門はあまり釣る気がしないな」
　今日も今日とて、亜魚隈猯利は趣味の川釣りに来ていた。周りが騒がしい理由を彼は理解している。すでに川下からは怒声や悲鳴、野次馬の歓声などが聞こえてきていた。
「ナマズ釣りでもしたかったが……」
今日は下流に行くべきだろうと猯利は判断した。歩きながら時々川に目をやるのは、騒ぎに注目しているわけではなく、この季節の水勢や水の濁り具合が気になるせいだった。ふと思い出したように、指を唾液で湿して、眉を丁寧になぞる。眉唾のまじないを自分に施して、猯利はどんどん先へ行く。
「この辺でいいか」
猯利は釣り具が入っているにしては大きすぎるザックをどさりと下ろす。中からオレンジ色のライフジャケットを取り出して身につけた。ザイル、浮き輪、そして巨大なリールのついた長い釣竿を無言で準備して行く。まるで川釣りと言うよりマグロの一本釣りだ。両腕には釣り針がテーピングで止めつけられ、針から伸びる糸がつながる先は防水仕様の携帯電話。いざとなったらアラームの振動を利用して、腕に針を刺す痛みで幻覚から醒めようと言う、まったく荒っぽい仕掛けだった。

「……む」
岸と水面の近くをうろうろしているような人間は却って危ない。ライフジャケットの入ったザックを背負い、竿を残して猯利は化かされ人のいる方へ歩みだした。