【死珊瑚の仇野】

　一条 紗矢香は考察する。


「ここの珊瑚は死滅しているのね。建物も無い。なら、私たちはタユタラが栄える前に来たのかしら？　何らかの理由で死滅した珊瑚が復活して……」
　レッドヒル・マリーの魔術は、タユタラの民……その古い血脈を最も色濃く受け継ぐ王に秘められた記憶を呼び起こした。遥か遠く、原初の記憶を。
　見渡す限りの白。横たわる死。これはその再現なのだろうか。
「ううん、違う。逆なのかも」
　先に見た廃都タユタラは、奇怪な珊瑚に覆い尽されていた。あれらはもしや、都市が正常な機能を保っていた頃には無かったものなのかもしれない。
「春彦は……どこにもいないわね」
「ならっきーも、どこかで無事でいるといいねぇ。うちらみたいに」
　隣に立つ壬生 由貴奈へ、紗矢香はいささか乾いた笑みを返す。
　目覚めてすぐにも周囲を探したが、幼馴染の姿は見当たらなかった。またも紗矢香の与り知らぬところで苦痛に苛まれてはいまいかと、気にはなる。
「でも、今はこの場でできることを。それが先決ね」
「そうだねぇ。例えば……あいつとか」
　由貴奈が指差した時、大股に死珊瑚の大地を横切る巨体は、既に間近へ迫っていた。
「っ！！」
　遥か頭上から振り下ろされるのは、鋏だ。とっさにろっこんを発動し、霧と化さねば紗矢香の胴は両断されていただろう。
「これは何……！？」
「ヤドカリ、かなぁ？」
　確かにそいつは、ヤドカリの形をしている。ただし、途方もない大きさの。背には貝殻の代わりにか、かつては軍艦だったのだろう鋼鉄の船を殻のように着込んでいた。
　ちょっとしたビルにも届きそうな甲殻類が歩くたび、地が揺れる。二人は震動に足を取られ、逃げ出すこともかなわない。
「まともにやり合うつもりもないけどねぇ。力は残しておきたいし」
　武器もなく身構えた紗矢香を、由貴奈は後ろ手に制した。
「どうするの！？」
「大丈夫。うちらには、心強ーい味方がいるからねぇ」
　ぱち、ばしりと、電弧がそこら中を這いまわる。
　悪夢は彼女らへ一様に、予期せぬ力をもたらした。由貴奈が身に着けたそれもまた、異相の怪物へ抗するため必要十分な代物ではあった。
　頭上へ緩慢に振り上げられた鋏が、直下へ落とされる。
「よろしくね。シスター・ヘレン」
　雷霆が迸り、蒼い粒子がスパークして、巨大甲殻類が泡を噴きながら後退る。
　多足多腕、純白の巨躯を持つ鯨のごとき生物が、由貴奈を守るように立ちはだかった。



　子供ならば誰でも、将来の自分を夢想するものでしょう？
　夢。夢だ。私には夢があった。
　明確で、堅牢な芯を持つ、確固たる夢が。

「あら、赤坂さんだわ。今日はどちらへ行かれるのかしら？」
「また書籍館ではなくて？　勤勉なことね」
「ふふっ。魑魅魍魎や妖の知識を蓄えるより、手習いの一つも始めたらよろしいのに」
「神様ではなかったかしら？　ほら、この島にもそうした伝承があるでしょう。遥か昔、空から一人の……」
「そのように俗なこと、存じませんわ。何れにせよ、婦女とあらば聡明さより母性を磨くべきでしょう？　あの方は粗野に過ぎるわ」
「そうそう、ご存じ？　赤坂さん、鶏舎で奇っ怪な儀式をされていたとか。鶏の首をこう、短刀で……血で図形や文字を描いて」
「まるで西欧の魔女のよう……」
「おお、いやだ。けれどあの方にはお似合いね、魔女だなんて」
「くすくすくす」

　ならばどうしろと言いたかったのかしら。
　糞女どもに習い良妻賢母を身に付けよとでも？　深淵なる魔術の探求を捨て、男にかしずき靴を舐めよと？　子を産む属具にでも成り果てよと？
　冗談じゃない。理解し難い。狂ってるわ。

「あの子はなぜ、いつまでもああして妄執や妄言を吐き散らすのだ？」
「さあ、知ったことじゃあありませんわ。あなたに父の威厳が足りぬからではありませんの？」
「ならばお前はどうだ。洋装など纏い、夜毎遊び回る怠惰があの子を堕落させているのだろう」
「ああら、ではあなたに一切合切責は無いとでも？　そもそもあなたの行き過ぎた厳格さがあの子を追い詰めて……」
「ふざけるな！　お前があの子を甘やかすから……」

　なぜ？
　なぜ彼らは神秘の島に生まれながら、それらを無いもののように振る舞えるの？
　なぜそこから目を背けていられるの？
　理解できない。狂ってるわ。



　奴らは群れをなす。それが習性なのか、現れる時は決まって複数だ。それも数え切れないほどの。
「ちょっとこれ、多すぎない……！？」
　最後の悪夢。いよいよ最終決戦かと張り切ることしきりであった新田 樹だが、さすがにこの数には辟易としている。
　拳銃型のガスガンを、コーラリアンのくねる触手の合間を縫うように瞳へ撃ち込む。概ね平和な島暮らしには過ぎた代物だが、こんな状況には役に立つ。
　死珊瑚の大地を、おびただしいコーラリアンたちが埋めている。ガスガンは強力だが、人でないものを撃ち抜くには至らない。
　大きな珊瑚の残骸はそれなりに重量があり、樹はろっこんを用いて頭上からそれを落下させることで、進行を阻もうと試みる。が、群れの先頭を歩く数体の頭蓋を砕いたとしても、代わりはいくらでもやってくる。
　まだだ。まだ終われない。樹はぎり、と奥歯を噛み締める。
　まだ、満足していない。もっともっと、楽しまなきゃ。この悪夢を！
「このままじゃまずいです……化神さん！」
「くそったれェッ！！」
　軟体生物のような柔らかい胸へ蹴りを食らわせ、弾き飛ばす。
　化神 小次郎にとて、未だ恐怖はある。強がってはいても、湧き上がる様々な感情がない交ぜとなり、胸はひどくざわついている。
　だが、思い出した。帰るべき場所があり、そこに待っている人があり、そのために必要な力を、自分が既に持ち合わせていることを。
「絶対に、生きて帰るぜ……絶対に！」
　やり方は分かっている。イメージを思い浮かべ、念じるだけでいい。
「……こ、これって」
　驚いた顔の樹を守るという意思も、小次郎にはあった。いささかに腹黒い樹の内心は悟りようもないし、小次郎にはそれも関係のないことだっただろう。
　小次郎のろっこんは、思い描いた幻影を作り出すことができる。加えて今の小次郎には、悪夢に生まれ悪夢に抗するための力をも備えていた。
「来いっ、百鬼夜行！！」
　異相の理を容易く捻じ曲げ掌握するその力。
　まず現れたのは、天狗だった。団扇をあおぎ、一陣の突風を巻き起こしてはコーラリアンを切り裂く。
　次に猫又が現れ、白く透き通る身体を爪でバラバラに解体する。
　続いては絡新婦が蜘蛛糸を吐きかけ絡め取り、輪入道が轢き潰す。
　それらは小次郎のろっこんがもたらす幻体であり、同時に夢境の編纂を可能たらしめる異形の力が、怪異へ質量と破壊力を与えていた。
「うわぁ、すごいことになってるねぇ」
「これ、彼女が作り出しているの？　すごいわね」
　鎌鼬が走り抜け、輪切りとなったコーラリアンが崩れ落ちたところへ、顔を見せたのは由貴奈と紗矢香だった。
　地響き。二人は追われていた。かげった空に樹が見上げると、
「で、でかい……！？」
　鋼鉄艦を着込んだ巨大甲殻類が、獲物をさらうべく鋏をひと薙ぎ。彼女らがとっさに身を伏せると、かすめた無数のコーラリアンたちの四肢が千切れ飛んだ。
「上等だ……」
　小次郎は息を吸い込む。力が漲っている。今なら、どんな相手も打ち倒せるように思えてくる。
　樹、由貴奈、紗矢香も並び立ち、うなずいた。どうやら思うところは同じであるらしい。由貴奈の後ろには、多足多腕の白鯨シスター・ヘレンも従者のように控えている。
「あれを何とかしないと、ここから脱出はできないみたいですね……！」
「うん。うちらも手伝うよぉ」
「ここで死ぬつもりなんてさらさらないわ。やらなきゃいけないことがあるんだから」
　前方にくねるコーラリアンの群れ。背後には鋼鉄の殻を背負う巨大ヤドカリが鋏を振り上げる。
「あたしが突破口を開くぜ！」


　かざした小次郎の手を合図に、大妖がしゃどくろが死珊瑚を砕きながら身を起こし、鋼鉄艦を殴りつけた。