平穏なれ、曝書の季節｜リアクション

平穏なれ、曝書の季節

　のんびりと卓に近づく真辺伸幸の速度が、少しだけ上がる。彼のテンションを上げることができる数少ない人を認めたからだ。
「ひーちゃん先輩～」
彼を慕う後輩に、先に席についていた氷雨潤一は笑顔で応える。杖を手にして、伸幸と同じ高さで会話をしたいと立ち上がった。あわぁ、いいのに、と言いながらも伸幸の顔はほころんだままだ。
「こんにちは、真辺さん。こんなところで会えるなんて意外ですね」
「やぁ……俺が図書室にいるの、変ですかねぇ」
照れたような、困ったような表情を浮かべる伸幸。潤一はその様子にさらに笑みを増す。
「あはは、ごめん。そんなつもりじゃないんです。会えてうれしいんですよ」
「氷雨先輩。こんにちは」
伸幸から少し遅れて現れたのは逆巻天野。礼儀正しく頭を下げると、さらりと灰色のポニーテールが流れる。
「おー。あまくん。いらっしゃいませ修繕ワールドだよねぇ」
「逆巻さんも一緒でしたか。こんにちは。お邪魔かなとも思ったのだけど、来てよかった」
「真辺とはただの偶然ですよ。僕も本を借りに……おっと、失礼」
そういうと天野は潤一の背と、どたばたと駆けてきた少女――野々ののこの間に体を滑り込ませた。ののこの肩がどすんと天野にぶつかる。
「わ！　ごめんなさい！」
「ここで走っちゃいけないよ」
天野はできるだけ穏やかに言った。伊達眼鏡越しの目が、冷たく見えてしまわないように。ののこは慌てて謝罪したあと、何かに気づいたように前に出る。視線の先には杖をついた潤一の姿があった。
「あれ？　どうしたの？　私何か手伝おうか？」
男子の夏服は学年が判別しづらい。ののこは潤一が上級生だとは気づいていないようだった。怪我をしていると思い込んでいるらしく、心配しているのがわかる。潤一は穏やかな口調のまま、ののこに笑顔を向けた。
「大丈夫ですよ。自分のことは気にしないでください」
「え、でも……」
不服げなののこに天野が諭すように話し始めた。ののこのベストのポケットからは、水玉模様のハンカチがちょこんと顔を出している。
「ねえ、野々さん。僕が、『そのハンカチ取ってあげるよ』って言ったらどうする？」
意外な問いに、ののこは顔をしかめる。
「えー、いいよ。私、自分でできるもん。だいじょうぶ！」
「ぬん！　つまりそういうことなのさぁ」
すかさず伸幸が天野の言葉の後を継ぐ。きょとんとしていたののこの顔が、二人の言わんとする意味に思い当たって明るく輝いた。
「そっか！　わかったよ。ええと……？」
「ひーちゃん先輩だよ～」
「二年の氷雨潤一です。よろしくお願いします」
伸幸のオリジナリティあふれる紹介と、潤一の丁寧な自己紹介が重なった。ののこは潤一にぺこりと頭を下げる。
「氷雨ひーちゃん先輩！　一年五組、野々ののこです。大きなお世話するところでした、ごめんなさい！」
「いいんですよ。気持ちはとてもうれしかったですから」
優しげな潤一の声に、ののこは本来の元気を取り戻す。あっち行ってきまーす！　と、再びばたばたと駆け出していった。
「だから走るなって……」
ため息混じりに言う天野のわき腹を、伸幸がつつく。
「あまくーん。やるじゃなーい」
「な、何がだよ。変なこと言うな」
「自分もそう思いましたよ、逆巻さん。気持ちを代弁してくださってありがとう」
にやにや見つめる伸幸と、暖かく微笑む潤一の間で天野は照れくさそうにうつむいた。
「ふふっ。二人とも本当に優しいですからね」
潤一は、たった今、二人がののこの『ひと』としての成長を促したのだということを知っている。それが何よりうれしかった。