平穏なれ、曝書の季節｜リアクション

平穏なれ、曝書の季節

　作業を始めてからと言うもの、逆巻天野はなぜか言葉少なだ。テープを張る手つきもぎこちない。氷雨潤一はその様子をじっと見つめていたが、ふいに手を伸ばし、天野の髪をわしゃわしゃとかき回し始めた。突然のことに天野は驚く。
「わっと……どうしたんです、氷雨先輩」
答えながらしまったな、と思う。心配をかけてしまっていることに気づいたからだ。潤一には相手の心を知るろっこん『シンパシー』がある。信頼する先輩にその力を使ってもいいと許したのは自分自身だ。何を言い訳しても、真実は伝わってしまっているだろう。慌てて動かした腕がずきりと痛み、顔をしかめる。
「逆巻さん。その手はどうしましたか？」
潤一の声が胸に痛い。どう答えたらよいのかわからなくて、天野は目をそらした。
「逆巻さん」
思わず天野は椅子に正座し、縮こまった。そばの真辺伸幸は小さくあーらまぁ、と言ったものの、それ以上ちょっかいをかけることはしない。
「お願いですから、危ないことはしないでくださいね？」
「すみません、先輩……」
「あなたは普通の高校生なんです。仲間も、友達も、いてくれるでしょう？　兵士のように心を殺して戦わなくていい。孤独を味わわなくていいんです」
潤一の言葉は叱責ではなく、いわば弟を思いやる兄がたまらずこぼす愛情の片鱗だった。
「心配なんです。一人で抱えないでください。頼ってくださいね」
「はい……ありがとうございます……」
「さ、お説教タイムはおしまいです。皆で修繕を頑張りましょう。真辺さんに追いつかないとね」
うなだれる天野の頭を、もう一度やさしくぽんと叩。足も楽にしなさいと、ひざにも一つ、ぽん。潤一は茶目っ気を交えて場を和ませようとする。
「ふぇっふぇっふぇ。ひーちゃん先輩～？　俺の手さばきに追いつけますかねぇ？」
その暖かな心遣いに気づいて、あえて伸幸もおどけてみせる。
「そういえばこの前、こんな事件があって……」
「なるほど。自分も手伝えるかもしれませんね……」
二人の話題は、最近学校をにぎわした妖怪騒動と、その意外な結末に移っていく。

　中ほどの机では、新井すばるとブリジット・アーチャーが並んで着席していた。机に広げられているのはとして名高い『ニャーロック・ホームズ』シリーズの英語版、つまり原書である。この古典推理小説が、本日の教科書の役割を果たしていた。言わずもがな、英語を教える先生役はブリジット、生徒がすばるだ。
「う～ん……英文だけ抜き出すと難解だね」
ホームズ作品は和文ならすべてそらんじているすばるだったが、原書はさすがに守備範囲外。言語の壁という意外な厳しさを見せる心のバイブルに、少々苦戦している様子だ。苦手科目の英語にここまでしっかり向き合おうと思えるのは、この作品をチョイスしてくれたブリジットのおかげである。すばるは今、誰よりも心強い家庭教師を得た状態だった。
「弱音吐かないの。ミス研ならやっぱりホームズでしょ？」
といいながら、ぱしぱしとリズムを取るブリジットの手の下には、ホームズ全集（英語版）がある。
「なんなら別の作品でもいいのよ？」
「いや、いいよ。ブリジットさんが選んでくれたんだしね。間違いないでしょ」
（まったく、どうしてこうこの男は時々恥ずかしいほどストレートなのよ……）
ブリジットはやれやれと思いながら『講義』を続ける。