平穏なれ、曝書の季節｜リアクション

平穏なれ、曝書の季節

　もう一人の修繕名人、三崎楚良の手業も目を見張るものだった。積まれているのは補修の難しい、背表紙側にダメージのあるものばかり。ばらばらになってしまいそうに傷んだ本たちを楚良は一手に引き受けていた。
これに加えて、修繕ビギナーの桜井ラッセルへの指南まで行っている。
「これは水糊。簡単な修繕はこれでいい。こっちは書籍の補修専用の、無酸性糊だ」
うんうんとラッセルはうなずく。飲み込みのよいラッセルに楚良は説明を続けた。
「乾いても弾力が残るので、背表紙の補修に使う。もしセロテープで荒療治をした後があったら、丁寧にはがさなければいけない。あれは百害あって一利なしなんだ」
「あー！　だから小型のドライヤーがあるのか……昔やったわ、机に貼ったシールをはがそうと」
「うん、あれは男子ならやるな。桜井君にはテープと糊での補修をメインで頼んでいいかい？」
「了解。任しといてくれ」
刃物を使うから注意してくれよ、と付け加えられる。木彫りを楽しむラッセルには、刃物の怖さはよくわかっていた。カッティングボードの上で、器用に修繕テープを切り分ける様子を見て安心したのか、隣の楚良は自分の作業を再開した。さて自分も修繕を、と何気なく手に取った本に、ラッセルは思わず歓声を上げる。
「うわっ！　これ……小学生の時見入ってた『鳥図鑑』だ！」
色とりどりの野鳥たち、個性的な鳴き声の表記、昔の人々が名づけた名前の意味を理解したときの驚きと喜び。鳥とかかわりの深い人生を歩むことになったラッセルの、原点とも言える本が目の前にあった。
「こりゃ、失敗できねーぞ！」
しっかりした本だけあって、背や表紙の部分は無事なのだが、ページを開くと、上の一部だけでかろうじてくっついている箇所がいくつかあった。傷ついた友を見ているようで、ラッセルは一刻も早くなんとかしてやらなければ、と思う。
「ああ、ノドが破れてしまっているね」
楚良はラッセルの真剣なまなざしから、彼のこの本に対する気持ちを思いやる。
「テープで直せば簡単なんだが、ここはよりきれいに見える方法で補修しようか」
と、細切りの和紙を取り出した。
「少しだけ難しいけど、やってみるかい？」
「おう、やってみるよ！」

　ラッセルは真剣な面持ちで破れたページの背側、『ノド』を理想の位置に戻してやり、その上から丁寧にボンドを塗った和紙を貼り付けていく。思い通りにまっすぐ貼れたことにほっとすると、背後から突然ハリセンが浴びせられた。といっても模造紙で作られた、ふにゃふにゃしたものであったが。
「ううわ！」
「ラッセル～？　ずいぶん熱心じゃないか」
「何だ、桜崎か。終わってからだからよかったけど、作業中だったら張り倒してたぞ」
「あたしがそんなことするわけないじゃないか。本が台無しになったらたまらないからね」
現場監督・桜崎巴はにやりと笑った。
「桜崎はいったい何をやってるんだよ？　歩き回ってるだけじゃないか」
「そう思ってるなら大間違いさ。あたしは皆を見張ったり、本の位置を確認したり忙しいんだよ」
「ほんとかよ！」
「本当ですよ。桜崎さんには、分類別にきちんと本が戻されるかどうか、チェックしてもらっています」
綾辻綾花のフォローに、巴はほうら見たか、と得意げな顔をする。ぐぬぬ、と黙るラッセルに
「和紙の補修はけっこう気を遣うんだ。なかなか見事だと言いたかったのさ」
と声を掛けて去っていった。
「なんだよ……まあ、悪い気はしないけどさ」
そうひとりごちるラッセルの集中は、ばりっ、という音に破られた。楚良が本から次々と、背表紙をむしり取っている。
「ななな、なんで！　本が!?」
「ん？　こうしてしまったほうが修繕しやすい本もあるんだ。やってみるかい？」
「マジかよ。俺にもできるかな？」
「和紙修繕があれだけうまくできるんだから、大丈夫さ」
優れた指南役を得て、新たな修繕名人が誕生しそうだった。