気になる一日｜リアクション

気になる一日

休日の一日
　東の空が僅かに白み始めた。電線や屋根で羽を休めていた野鳥が一斉に囀る。
　自室で机に向かっていた八神修の耳にも届く。最後の問題を解き終えると手を止めた。そっと瞼を閉じて涼しげな囀りに耳を傾ける。
「……聞こえなくなったか」
　イスを引いて立ち上がる。窓辺に立ち、やや視線を下げて青い海を眺めた。
「青いな……あおい……」
　口にした修は机の方に顔を向けた。写真立てには修とあおいがエプロン姿で写っていた。
　――あの時はサツマイモでケーキを作ったんだよな。楽しい時間はあっという間に過ぎたけれど、今も甘い記憶として残っているよ。
　修は胸に手を当てて微笑んだ。また海へと目を戻した。小さな波が光の粒を転がしていた。
「風があるのか」
　口を閉ざす。頭の中に春風となって記憶が運ばれてきた。
　――不思議な世界で自由落下を体験したな。回りながら落ちてきたあおいを助けて、爽快な空を堪能した。
　一層、表情が優しくなる。
　――あおいは子供っぽいものを嫌がる傾向にあるけれど、空の時は違ったね。ツインテールのリボンは色鮮やかな黄色で、淡い桜色の服には猫の模様があったな。
「猫は刺繍？　いや、プリントだったか……アップリケ？」
　難問に向き合うかのように顎に手を当てた。細めた目が一点を凝視する。
　――どうして思い出せない？　会話の内容は覚えている。どのように過ごしたのかも、はっきりと記憶していて、あおいの服の模様だけが霞んで……。
　思考は別の部分に向かった。
　――下は何を穿いていたんだ？　キュロットのような、いや、ホットパンツ、ショートパンツだったか。
「ダメだ……」
　降参したように項垂れた。軽く頭を振って息を吐く。
　急に頭を振り上げた。軽く髪を掻き毟り、すぐに手櫛を入れて整えた。
　窓外に縋るような目を注ぐ。時間と共に海は明るさを増した。
　――キラキラしている。あおいの笑顔みたいだ。見ているだけで心が温かくなる。細かい仕草が俺の胸に蘇って、当時と同じように幸せな気分に浸れる。
　それなのに、どうして服装は思い出せないんだ。
「写真があれば……」
　空の雄大さとあおいに心を奪われて、そこまで頭が回らなかった。
　――新聞部の部長が情けない。こうなれば……。
　机の上に置いてあったスマートフォンを手に取った。起動させた直後に切った。
「おいおい、何をする気だ？」
　嘲るような表情を浮かべた。
　――本人に聞けばわかるかもしれないが、今頃になっておかしいだろ。絶対に笑われる。あおいのことだから控え目にクスクスくらいで済むかもしれないが。
　修は目を見開いた。頭が僅かに上下に揺れる。
　――そんな表情も見てみたいなぁ。
　惚けたような表情で佇む。
「電話だと顔が見えないか」
　赤くなる顔に掌を押し当てた。その姿でゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「どうしたらいいんだ」
　顔からずるりと手が離れた。やや顎を上げて高い天井をぼんやりと眺める。
　――小さなあおいが見える。背中に白い羽根を生やして、そう、三人が輪を作って飛んでいる。小さなラッパを笑顔で吹き鳴らし、電話を掛けなよ、と俺に囁き掛けてくるんだ。
　修は安らいだ表情で、妄想が過ぎる、と静かに言った。
「そうだよな」
　スマートフォンを強く握り締める。迷いのない指で操作して耳元に当てた。聞こえてくる呼び出し音に生唾を飲んで待つ。
　相手と繋がった。
「朝早くに悪い」
　最初に謝った。次の言葉は頭の中から消し飛んだ。伸びをするような声が愛らしく漏れて耳をくすぐった。
「一緒にスイートポテトを作ろう」
　話は秒単位で終わった。
「何を俺は……」
　呟いた修は不意に笑った。
「それもいいじゃないか」
　優しげな目を天井に向ける。
　――小さなあおい達が飛びながら祝福のラッパを吹き鳴らしているね。
　何の変哲もない空間に修は微笑んだ。