【お花見】しづ心なく花の散るらむ｜リアクション

【お花見】しづ心なく花の散るらむ

　葉利沢倫理子は存在する。
　桜花寮の庭にて。庭に咲く桜の下に。
　陽差しは温かい。丸みを帯びてやわらかい。
　音らしい音はまるでなかった。皆出払っているのだろう。寮からも物音ひとつ洩れてこない。
　このところ倫理子は、比較的体調が落ち着いている。
　過去の忌まわしい記憶がフラッシュバックすることがあまりなくなった。ただしそれと引き換えに、意識と記憶の双方が喪失することが増えたのだが。
　奇妙な現象だった。なにを考えどんな行動したのか、どうしても思い出せぬ空白の時間がでてしまうのだ。まるでその部分だけ、倫理子の脳が記憶を刻む手を止めたかのようだった。
　しかしその事実を受け入れたとしても、なお、自分は落ち着いた状態にあると倫理子は思う。

　倫理子を誰かが目撃したとしても、いまの彼女は、ぼんやりと桜の樹の下でひなたぼっこしているようにしか見えないだろう。
　猫かあるいは、母親の胸に抱かれる幼子のように。

　喧噪の中よりここの桜が好き。

　倫理子は物思いにふけっている。
　このとき倫理子は同時に、ここではないどこか、別の場所に存在していた。
　誰かと向き合っているような気がする――。
　…………！
　体を離れそうになる意識に手を伸ばし、引き下ろしてとどめて、倫理子はこのところ頻発する『現象』について考えを向けた。
　すべては、３学期の始業式の夜から始まった。
　“自分の中に誰かがいる”、という感覚だ。それを覚えるとき、いつの間にか倫理子の意識と記憶は、別の担い手のところに移ってしまう。
　最近も奇妙な夢を見た。誰かに優しくされる夢だ。
　赤と青、緑、黄色、原色に近いたくさんの光が溶け合うように混じり、マーブル模様の霧となっている。この霧から倫理子は逃げていた。走っていたのかもしれないし、走りながら後退していたのかもしれない。泳いでいるつもりで、実際は溺れていたのかもしれない。
　その夢から覚めたと思ったとき、まだ倫理子は夢の中におり、そこで『誰か』に出逢った。
　相手の顔は覚えてない。
　名前も定かではない。
　何かを囁かれたが、それも記憶にはない。
　ただ、唇に甘やかなキスの記憶だけが残った。
　だがその『誰か』には懐かしい気配があった、と思う。

　今また、誰かと向き合っているような気がする――。

　自分の中の『誰か』の存在が次第に濃密になるにつけ、倫理子はこれ今までとは違う種類の不安に苛まれるようになった。
　ただ、その不安は過去のトラウマのような恐怖ではなかった。『誰か』にこの身を乗っ取られるという予感だった。
　繰り返すが恐怖ではない。なぜなら倫理子は、その自分の中の『誰か』にこのまま自分自身が消されるのなら、それでいいとも思いつつあったからだ。

　少なくとも、今の自分なんて誰からも必要ともされていない。
　でも、自分の中の誰かが……汚れきった自分の身体でも欲しいのなら、あげる。

「こんな穢れた自分の身体でも、あなたが必要ならあげてもいい。……その代わり、私の心を殺してからよ」

　向き合っていた少女が、うなずくのを感じた。
　手を伸ばして彼女の左右の頬を押さえ、そして――。

　桜が舞い降る。花びらがひらりと落ちるにとどまらない。花がまとめて、どさっと庭に落ちた。
　もうこの桜は終わりかもしれない。花は散る速度を増している。
　倫理子は薄く笑む。
　今、桜を眺めているのは倫理子ではなかった。
　葉利沢倫理子は存在しない。
　そこにあるのは、残酷なるMaliceの笑みだった。