ねこ温泉郷の三日間｜リアクション

ねこ温泉郷の三日間

　黄昏の空を映す白濁色の温泉の水面には、どこからか舞い込んだ桜の花びらがいくつもいくつも揺れている。
　女湯とを申し訳程度に隔てる柵を興味なさげに一瞥して後、優は熱い湯に肩まで沈み込んだ。どこまでも伸びていくようにも見える岩肌の湯船に視線を伸ばし、息を吐く。
「あー……」
　湯の気持ちよさに思わず零れた自分の声に小さく苦笑いをする。思いがけず訪れて滞在することとなったねこ温泉郷ではあるけれど、
(ま、折角来たんだ)
　温泉でのんびりするのは悪くない。そう思えたのも、
「……ユウ」
「……って、日向！？」
　ほとんど背中越しにカノンの声を耳にするまで。
「お前、」
　湯を跳ね上げつつ見回す。どうやら柵のすぐ向こうに居るらしいと気づいて一安心するも、それも僅かの間。
「お前、柵越しとは言え何話しかけてんだ！」
「君も入りに来たんだね」
「風呂入ってる時に男湯に向かって話しかけるとか……」
「……？」
「その、いいのかそれ？」
「……だめなのか？」
　心底不思議そうなカノンの声音に、優はまるで自分がおかしいかのような錯覚にとらわれる。
「……別に日向がいいなら、いいけどよ……」
(俺がおかしいのか？　気にし過ぎか？)
「君は何をしてた？」
「何って、別にぼーっとしてた」
「ここにはアイスがあるのかな」
「さあな。そればっかな、お前」
　湯煙に巻かれながら、優はカノンとの他愛もないお喋りに少し途方に暮れる。カノンは互いに風呂に浸かっていることなど何一つとして気にしていないようではあるけれど、
(だってよ、風呂入ってるって事は)
　うっかり、ついうっかり、カノンの入浴姿を思い描きかけて、十五歳の少年はひとりで慌てた。
(……いやいや！)
　焦ってばしゃばしゃと水面を叩く。首を横に振る。
「……ユウ？」
「何も考えてない！　考えてないぞ俺は！」
　口に出してしまってから、しまったと口を押える。ばしゃりと頭まで湯に浸かる。
「ユウ？」
「……何だよ」
　ぶくぶくと顔半分沈めたまま応じれば、カノンは何かを思い出したように言い淀んだ。
「何だよ、日向」
「この後ちょっと付き合って」
「ッ、は？」
　咄嗟に振り返って、目隠しというには余りに粗末な柵が目に入った。立ち上がって背伸びでもすれば、同学年の少女の裸を見てしまう。そう思った途端、目眩がするほど顔に血が上った。これ以上ないくらいの速度で、優は柵から目を背ける。
　そうしてから、カノンはこの後何処かに向かおうとしているということ、それについて来てくれと言っているのだということに思い至った。
「……あ、ああ、いいけど」
　動揺を見せぬよう極力不機嫌に聞こえる声で応え、風呂をあがる。
　体を乾かし、身支度を整えて脱衣所を出る。
「あー、いい湯だった」
(……日向が話しかけて来なければな)
　ぼやきながら、まだ出てきていないらしいカノンを待ち、廊下に佇む。
(しかし『付き合え』って何にだ)
　首を傾げたところで、女湯の暖簾が揺れた。出てきたカノンは宿舎で借りた浴衣姿に濡髪をそのまま垂らしている。小柄な体の線が易々と想像できる浴衣姿も、ほかほかと湯気のあがるうなじを伝う髪からの水滴も、男子高校生には刺激が強すぎた。
「……ったく、ちゃんと拭け！」
　赤くなりそうな頬に気難しく力をこめて唇を引き結び、優は肩にかけていたタオルを取ってガシガシと乱暴にカノンの頭を拭く。
「この位すぐ乾くのに」
「風邪ひくぞ馬鹿！」
　翡翠の瞳をうるさそうに瞬かせるカノンを照れ隠しに叱りつけ、優はもうどうしようもない溜息を吐く。
「まったく、もう」
　湯上りの姿に見惚れたことも、女として意識してしまったことも、絶対に言わないようにしよう。悟られないようにしよう。