春の嵐の只中で｜リアクション

春の嵐の只中で

　図書館の窓から見える空が茜に暮れなずんでいる。
　視線が手元から窓に移っていることに思い至って、八神修は手にしていたペンを筆箱の中に仕舞った。集中力が切れた。そろそろ帰ろう。
　机に広げた問題集や筆記用具を鞄に片づけ、顔見知りの司書に会釈して図書館を出る。傾きはしたもののまだ眩しさを残す太陽の光に瞳を細め、自転車置き場に向かう。
　あっ、と聞こえた幼い子供の声に振り向けば、少し後ろで幼児が転んでいた。咄嗟に声を掛けようとしたところで、その傍にしゃがんで見守る母親の姿に気付く。口を噤む間に、母に励まされた子供が唇を結んで起き上がる。手を繋いで黄昏の中を歩き始める母子をそっと見送るうち、しん、とした痛みが胸を突いて去った。
　痛みが意味するものを胸に探りながら、自転車に跨る。帰路を辿って漕ぎ始めて、
(……何故だろう)
　いつもはそう気にならないはずの家族連ればかりが目についた。
　いつにも増して家族連れが多いわけではない。いつもと同じ道程、いつもと同じ時間帯。学生の方が多い、そのはずなのに。
　小中学校にほど近い公園の横で自転車を停める。スノードロップの咲き乱れる花壇の脇、深呼吸をする。今日に限って思いが乱れるのは、何故だろう。
　春の嵐の如く気紛れに胸に去来する痛みの元を探し、考えを巡らせる。
　大元にあるものは常々から理解している。
(父母との関係)
　幼い頃からのそれは、けれど今は随分改善したように思う。
　あの父の考え方は、賛成こそ出来ないがあり得ることと理解は出来た。それに、彼は彼なりに己を子として扱っているらしい。それがたとえ、どうしようもなく分かり辛かろうとも。
　八神家の母も、――血の繋がらぬ母の立場も、辛いものなのだろうと納得はしている。彼女も己のもう一人の母なのだと、最近は思えるようになった。
　そうであっても、修と二人の関係は、通常の父母とのそれとは言い難いのかもしれぬ。
　そもそも、多忙を極める二人とは、気軽に電話すらする関係でもない。万一したところで、
(叱責されるだけだ)
　父から受ける言葉に容易く想像が及び、修は口元に苦い笑みを刻む。そんな関係であっても、父母は父母だと、今は言える。
(……母さんなら)
　ふと、思う。今は天国で穏やかに過ごしているはずの実母ならば、こういうとき己にどんな言葉を向けてくれるだろう。
　思いかけて首を横に振る。もう、母親の膝に縋る齢ではない。
(家族も、家族とのふれあいも、……求めても手に入らない)
　公園に遊ぶ子供の声がする。子供を迎えに来た家族の声がする。
　耳に届いたその声に、胸が萎むほどの溜息が零れた。今の父母に、あんな風に迎えに来てもらったことは皆無だ。
(……そうか)
　自覚する。己は、寂しいのだ。
　自覚した寂しさをどう処理すべきか考えた挙句、鞄からスマートフォンを取り出す。呼びだすのは画像フォルダに納めた片想いの少女。
　少女の名を心に呟く。彼女と重ねた思い出を手繰り寄せるように、幾つも撮った写真を眺める。
　重ねた思い出の分だけ、フォルダには画像が詰まっている。
　笑顔の彼女、焦った顔の彼女、己と一緒に写っている彼女。たくさんの彼女の写真と、それを撮った己が居る。それは写真の分だけ、確かだ。
　写真を眺めていて、思い出を蘇らせていて、気づく。
(俺が君を好きなのは)
　人柄はもちろんそうではあるけれど、もうひとつ。彼女の纏う家庭的な暖かさもあるのだろう。
　彼女から聞いた彼女の家族の話を思い出す。大家族の中で育った彼女は、家族を想うように友達を大切にする。だからこそ、彼女の傍に居れば、彼女の持つ家庭的な空気に溶けこんでしまえるような、そんな気がした。
　彼女を想えば想うほど、心を冷たく貫いて開いた寂しさの穴が埋まってゆく。
　夕暮れの空を仰ぐ。明日になればまた、学校で彼女に会える。
　大好きな彼女に会える幸せをより感じられるのならば、
(今の独りも悪くはないんだ)
　寂しさは幸せをより強く感じる為の心の綾なのだと、思考を切り替える。
(人生は孤独だ)
　であるならば、孤独とどう付き合うかが大切なのだろう。
　気持ちを切り替え、スマホを仕舞おうとした瞬間、メール着信が知らされた。鳴動するスマホを確かめれば、それは友人である椿美咲紀からの夕食の誘い。
　寿司でも、と返信しつつ、使用人に夕食は不要と連絡を入れなければと同時に考える。そうしながら、もう一度空を仰ぐ。
　父も母も、遠い地に居る。暖かな関係など望めもしない。それでも、
(俺には、愛する女性と友が居るのだから……)

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