きままにアルク　前編～二十四の轍｜リアクション

きままにアルク　前編～二十四の轍

【水晶の世界】

　すべてが、凛として。
　何かに導かれるように、青山絢が一歩足を踏み出すと、空気は震え、水晶たちは呼応するかのように鳴動します。透き通った無色透明。あるいは赤、あるいは青。紫、緑、黄、霞がかったようなスモーキー・クォーツも。
「……綺麗だわ」
　ここでは何もかもが、水晶で作られているようです。足元は絢自身の顔が映り込むほどにきらめいているし、左右に連なる壁は、さまざまな色味を持つ水晶が複雑に絡み合い、天然のステンドグラスとでも表現すべき、まるで精緻な芸術作品です。
　ただ、ひたすらに美しく輝く世界というだけではなくて、
「っ……！」
　ところどころにもろくヒビの入った水晶もあり、時折がらがらと、それらが崩れ落ちるところも見られました。何よりここは、水晶の壁が入り組んで、あたかも迷宮のよう……ともすれば迷い、水晶のクレバスに飲み込まれてしまいそう。
　だからこそ。そんな美しさの中に垣間見える危険が、絢の目に、この世界をより魅力的に、いっそう際立たせて見せるのです。
　冷えて寒々しい光景にも思えながら、ひたと水晶の壁に手を這わせると。そのひんやりした感触は、このところは特に揺らぎがちな絢の心を、静かに穏やかに、落ち着かせてくれました。
　気づくと、ふにゃあとひと鳴き。冷たい水晶の床に寝そべり、白黒猫が惚けたような声を上げて、絢は口元をかすかに緩めます。

　水晶の一角に背を預け、絢はそっと腰を下ろしました。
　氷のように冷え、何もかもが透き通るこの世界に佇んでいると、自然と胸へ、その衝動が沸き上がります。
（デジカメを持ってくれば良かったわね。なんて……今さらかしら）
　風景の美しさを写真に収めるのは、絢にとって、ごく普通の日常の一部でした……かつての昔は。
　あれほどに熱中していた写真に、今の絢は、あまり素直な情熱を傾けることができずにいます。
　否応なく思い出されるのは、母の死。大好きだったカメラマンの父が、アシスタントの女性を新しい母と呼び、幸せそうな笑みを浮かべる様。父の撮った写真の中で、絢を見つめて微笑む、本当の、たったひとりの母を見るたび。彼女がもういないことを思い出すたび、絢の胸は、ぎゅうっと締め付けられました。
「…………ふふ」
　辛い、辛い思い出です。今ではもう涙すら流れず、乾いた笑いが漏れるだけになってしまったほどに。
　時折無性に写真を撮りたいと思えるようなシーンに出会い、そんな時は思い出に抗わず、カメラを取り出すこともあるものの……今は何だか、複雑な気分。水晶たちは本当に美しく、心奪われる光景ではありながら、たとえ今カメラがあったとしても、いざシャッターを切ろうとすると、ためらってしまったかもしれません。父への裏切られたような思い、母への消えない憧憬が、絢を頑なにしていました。
　す、と、瞳を閉じると。まぶたの裏に、幼い自分へ手を差し伸べる、在りし日の母を見たような気がしました。

「……ソボウヨ」
　しばし、うとうと。まどろみに落ちていたようです。
「……？」
「アソボウヨ！」
　腰のあたりにぬくもりを感じ、アルクの白黒毛並みをひと撫でしてから、目を開けると。不思議な人影が、目の前で揺れていました。
　声をかけてきたのは、この世界の住人のようです。小さな子供、女の子のように見えました……けれど不思議なのは、その肌が、長いさらさらの髪が、うっすらと透き通って見えることです。
「…………水晶の……精霊？」
　見ると子どもはたくさんいて、それぞれにきらめいて輝きながら、その色味は様々。赤や青、緑に黄色……思わずつぶやいた精霊という言葉が、まさしくぴったりであるように思えました。
　遠くには大人の精霊もいて、こちらを見守ってはいるものの、ことさら関わろうという気はないようです。半面、子どもの精霊たちは異邦人である絢に興味津々、好奇心たっぷりです。
「ネエ、アソボウ？」
　くりくりとした水晶の瞳にのぞき込まれると、何だか、すべて見透かされているような気がしてきます。絢の苦悩も、痛みも……精霊たちは子どもながらに、そんな辛さへ共感し、和らげてくれようとしているのかもしれません。
「……いいわ。遊びましょうか」
　差し出された小さな手を取ると、やっぱりその感触はひんやりとしていて、けれどつるりとした滑らかさが心地良くて。
　水晶の精霊たちとのひと時の触れ合いは、凝り固まってしまった絢の複雑精緻な心持ちを、ほんの少しだけ。やわらかく、解きほぐしてくれました。