寝子島の橋の下｜リアクション

寝子島の橋の下

　身を起こして、呻く。
　頭痛にも似た眠気に押し潰されそうになって、布団を被った膝に額を押し付ける。
　白い眉間に深い皺を刻み、寝乱れたうなじまでの黒髪をかき上げてから、深倉理紗子は閉ざしたカーテンから覗く薄暗い夕暮れの光に再度呻いた。胸の底から息を吐き出し、深緑の瞳を一度きつく閉じる。
　枕元の携帯電話を手探りに取る。
　昨晩、職場である寝子島総合病院から自宅に帰り、扉を開けたまでの記憶はある。ただそこからベッドに行き着いた記憶はない。
　それでも、薄暗い夕暮れの光に見下ろせば、きちんと服は寝間着代わりのロングTシャツに変わっていた。鞄から出した覚えもない携帯電話も枕元に投げ置かれていた。
　感情を忘れた瞳でぼんやりと己の身を見下ろすうち、目が醒めた。手にした携帯電話を起動して時間を確かめる。光る画面に映し出された時計盤が示す『四時』が午前なのか午後なのか、しばらく分からなかった。
　窓硝子越しの外から子供らしい誰かの笑い声が小さく聞こえて、午後であることにようやく思い至る。
(下手した……)
　折角の非番の日に、うっかり夕方まで寝入ってしまった。
　息を零す。目が醒めてしまえば、もう眠れない。

(このまま部屋に居ても仕方ないよね)
　自分の体温の残る布団から抜け出し、熱いシャワーを浴びる。服に袖を通し、コートを羽織り、家の外に出る。
　外に出て、けれど行く当てはない。
　それでも、歩き始める。賑やかさから逃れるように寝子島街道を一本外れた細い路を辿る。茜色に煌く川を傍らに、道向こうの小学校を、中学校を、横目にただ過ぎて行く。
　当てどなく歩くときは、たいてい心も当てどなくさまよっている。
　吹き寄せる冬風から目を伏せ、コートの襟に顎を埋める。
(私は、……)
　自分はどうしてこんなに不甲斐ないのだろう。
　どうしてこんなに役立たずなのだろう。
(……姉さん)
　当てどない自責のループの果てにあるのは、亡くなった姉の笑顔。次姉は自分なんかよりもずっと優秀だった。父も母も兄姉も、本当は――
　そこから先は胸のうちであっても言葉には出来ず、理紗子の瞳はますます沈む。
　沈んで沈んで、行き着く。
　――おまえは医者に向いていない
　最近思うようになったその思いは、けれどもしかしたら以前からくすぶり続けた考えが表面化しただけなのかもしれない。
　――だからおまえは
　――もっと頑張らなければ
　――どうしておまえはそんなに駄目なんだ
　子供の頃から父に叩きつけられた否定の言葉は、叩きつけられたその時のままに幾度となく心を傷つける。
　成績が上位であっても、更に上を目指せと叱責された。
　褒められず否定され続け、抉られ続けた心の傷は何年を経ても癒えることなく、父の罵声を思い出す度に血を噴く。痛みに怯えて萎縮ばかりを繰り返す。
　――臨床医には向いていない
　大学の時に世話になった教授にそう言われたことがある。
　――君は優しすぎるから、臨床医には向いていない。研究医を目指しなさい
(違います、教授)
　わたしは優しくなんてない。
　反駁しようとしてできなかった。
(わたしは優しくなんてない)
　優しく見えるのは、必要以上に自分を抑え込んでいるからだ。
　自分を抑えた上で、他人のような自分を演じているからだ。
　だってそうしなければ、
(わたしは、……)
　熱を帯びた息が掌に触れて、知らぬ間に己が両手で顔を覆っていることに気付いた。見下ろした掌に冷たい雫が落ちている。
　頬を伝い掌を濡らすそれが涙であることに思い至って、理紗子は慌てて瞼を拭う。涙を誰かに見られていまいか視線を巡らせ、
「……いつの間に、こんなところへ……？」
　自身が人気のない橋の下に膝を折っていることを、しゃがみこんで声を殺して泣いていたことを確かめ、呟く。
　思いに沈んだまま、それでも泣く姿を人に見られまいとして無意識に橋の下へと隠れたとしか思えず、それがほんの少し可笑しくて、けれど笑みを浮かべられる心の余裕もなく、理紗子は涙に滲んだ瞳をもたげる。
　橋の上にも周囲にも、不思議とひとの気配を全く感じない橋の下の橋脚には、誰が描いたのかも知れないカラフルな絵があった。
　薄く開いた扉の向こう側から好奇心いっぱいの顔を覗かせる少女、宙に眠る灰色猫、色とりどりのシャボン玉を撒いて跳ねるサンマさんとマンボウ君。
　冷たい涙を拭い、痛む胸を撫でる。息を継ぐように、息を吐き出す。
　楽し気に踊る色彩を見つめている内は、懊悩の世界から逃れられる気がした。
　それがたとえほんの束の間であるとしても、今だけは。

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寝子島の橋の下

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