寝子島の橋の下｜リアクション

寝子島の橋の下

　春雷にはまだ少し早いかなと思う。
　雪さえ散らして来そうな暗雲を奔る稲妻に肩をすくめた瞬間、轟音と共に雨粒孕んだ風が吹き寄せた。
「っ、……」
　夕飯の材料が入った買い物袋を抱え、志鷹若菜は優しい翡翠の瞳を顰めて駆け出した。雨を避け、急いで駆けこんだのは地図にも載らぬような小さな橋の下。ぱたぱたと橋桁を叩く雨音を耳に、コートの肩や頬を濡らす水滴を掌で払う。
　買い物袋も、買ったばかりのお気に入りのコートもブーツも、あっという間にびしょびしょになってしまった。
(もう少し早く起きれば良かったのかな)
　夜勤が明けて、双子の弟と暮らすシーサイドタウンの自宅に帰りつくなり、倒れ込むように眠ってしまった。目が覚めたのは夕方前。食事当番であることに思い至って慌てて買い物に出かけたけれど、
「ついてないなぁ……」
　雨雲の下よりも薄暗い橋の下で雨宿りしつつ呟けば、引き摺られるように最近の己の仕事についての憂いが胸を塞いだ。
　曇りがちだった心を打つかの如く雨に降られ、沈む気持ちは知らず嘆息となる。
　憧れの仕事だった医者となってもうすぐ四年。
(……お母さんのように、なりたかった)
　幼い頃から、産婦人科医である母に憧れていた。
　幼い頃、母が院長先生を務める医院で、大勢の母子の温かな光景を見た。命を救う母の姿を見た。
　母のようになりたくて、この職に就いた。
(けれど……)
　本土の私立大学医学部を卒業後に医師免許を取得し、寝子島総合病院で産婦人科専攻医として勤務を始めて、――この一年で、幼い頃に見たあの日の光景が『当たり前』ではないことを学んだ。命の重さと儚さを、目の当りにした。
(……お母さん)
　あなたのお母さんのお陰よ、とおくるみに包まれた小さな紅葉のような手に触れさせてくれた若い女の人の微笑みが過る。
　病院のベッドの上、未だ見ぬ我が子を喪い呆然と天井を見上げて涙を流すばかりの女性の姿が過る。
　痛む腹を抱え、この子だけは、と母に懇願する女性の姿が、
　どうして私をこんなに苦しめるの、と膨らんだ腹を己が拳で打つ女性の姿が、――温かな過去と冷たく苦しい今とが瞼の裏に浮かんで消える。
(私が拙いせいで)
　目の前の命を救ってあげられなかった時の、身を押し潰すほどの後悔と罪悪感に苛まれ、立っていられなくなる。濡れ鼠のまま、その場に蹲る。
　医の道を志したのは、患者の笑顔が見たいからだった。なのに、
(現実は……)
　冬の雨に冷えた瞼に涙の熱が集まり始めて、けれど零れて落ちるよりも先、
　――若菜
　耳元に、今は遠い本土に住まう母の声を聞いた。丸めた背中に母の掌の熱を感じた。
(お母さん)
　何より強い魔法の言葉を唱えるように、胸に母を呼ぶ。
　涙を堪え、抱えた膝に埋めた瞳をもたげる。橋の下を暗く流れる川面を見つめる。
　母も、同じ苦しさを一人で抱えていたのだろうか。
　けれど、若菜は母の涙を見たことがない。母はいつも笑顔で弱音一つ吐かなかった。
(強いな……お母さん……)
　改めて感じるのは、母の偉大さと強かさ。
　母を想って思い出すのは、ある日の夕方。あの日もこんな急な雨が降っていた。雨の音を傍らに、母の膝で絵本を読んで貰っていた。
　風邪でもひいて学校を休んでいたのか、他の兄弟たちの姿は周りにない。母をひとりじめしているような嬉しさと、ほんのちょっぴりの罪悪感は、けれど突然鳴り渡った電話の音に吹き飛ばされた。
　電話口に立った母の顔つきが変わる。優しい母から、厳しくも温かい医者の顔になって、
　――ごめんね
　幼い娘の頭を撫でて言い置くなり家を飛び出した母の背中を、幼い娘だった若菜は大人になった今でもよく覚えている。
　――自分と居るのが嫌なのかな
　そんな風に思った幼い自分を、大人となった若菜は叱る。今なら、母の苦労も心苦しさも、手に取るように解る。
(ごめんね……お母さん……)
　瞼を閉ざし、開く。滲みそうになった涙を抑え込む。
　静かに深く息をして、見上げた空に雨はなかった。
「あ、虹……」　
　薄曇りの夕焼け空に架かる七色の虹をも見つけて、若菜は淡く笑んだ。
　――ねえちゃん！
　ふと思い出したのは、昔、双子の弟と言った買い物の帰りに見つけた虹。虹が見えるよと誰より早く両親に教えたくて、弟とふたり、急いで帰路を辿った。
(ふふ、懐かしいな……)
　虹を追いかけて弟と走った帰り道と、弟と繋いだ手の温もりを思い出す。あの日一緒に駆けた弟は、今は同じ病院に救急科専攻医として勤めている。今日もきっと疲れて帰って来るだろう。
(好きなもの、作ってあげようかな)
　虹の空を仰ぎ、若菜は再び立ち上がる。

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寝子島の橋の下

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