天使と悪魔のロマネスク｜リアクション

天使と悪魔のロマネスク

大悪魔『エローチカ』（２）

　美しい青年が手を差し伸べ、浅葱あやめを誘う。しなやかな指が伸びてきて頬をなぞり、微笑みながら、そっとささやく。
　愛の言葉を。
「…………僕は……」
　戸惑いは当然のこと、大いにある。知られているのか、バレているのか……そう思えば、背筋を這い上るような悪寒は、より一層に際立った。
　青年は確かに、美しかった。悪魔の言うことに間違いは無かった。その手を取ってしまうことができたなら、迷いなく身を預けることができたなら……そう思わずにはいられない。
　しかし、
「……いえ。結構です……」
　常に、ちらつくのだ。脳裏へと、あの時の夢が。
「あんな絶望は、もう二度と……だから、僕は……」
　あやめは拒絶する。目の前の青年を。美しい彼を……ありもしない、幻影を。
　同時に、心へと固く決める。
「…………知られているのなら」
　止めなくては。誰かに漏らされてしまわないよう。止めなくては……あの悪魔を。
「な……なぜ効かないの！？　あたしの幻術は、完璧に効果を発揮しているというのに……！」
　眼鏡の奥、暗い瞳がぎらり、瞬いた。

　幻覚は確かに、強烈なリアリティを伴って彼らの前へと現れた。並みの人間ならば、抵抗する間もなく囚われ、誘いを拒むことなどできはしなかったろう。
　しかし、彼らは違っていた。それぞれの気質やメンタルの強さもありつつ、決定的に有利に働いたのは、寝子島で幾度も見舞われる異変や出来事に対応してきた、その経験だ。
「確かに、リアルな幻像ですが。私には通じませんよ」
　ナタリア・シシロヴァはそう断じて、取り出したエアガンの銃口を、いやーんうふーん、などとひとり悶えている下心の背中に向け、ぱちん！　トリガーを引き絞った。
「い、痛っだああああああ！？　なになに、急にものっすごい痛かった……あれっ、水着のお姉さんたちは？　俺のパラダイスは？」
「より大きな刺激が、弱い刺激をかき消す。つまりはそういうことです」
　ナタリアのろっこんは、エアガンの射撃による衝撃や痛みを、実弾のごとく錯覚させることができる。下心のみならず、ナタリア自身もまたそうすることで、幻覚を打ち払って見せたらしい。
　金剛優芽もまた、彼女なりのユニークな手段によって、幻影に囚われた人々の目を覚まさせた。
「皆さん、見てください！　私……脱ぎますっ！！」
　眼鏡を。フレームをつまんで、しゅぱん！　と外せば、発動したろっこんは、我に返った幾人かに、彼女への敬愛の視線を向けさせた。
「くっ、あたしの幻覚が、どうしてこんなにも簡単に……！？」
「さあ。なぜでしょうね」
　苦々しくつぶやく悪魔へ向け、ナタリアはエアガンを構える。
「では、質問です。私の性的嗜好とは、一体なんでしょう？　まぁ、当たろうとも当たらずとも、あなたには素敵な未来をお約束しますが」
「ぐぬぬぬ……！」
「……エローチカさん。あなたはまるで、悪魔の『女王』のようですね」
　静かに言った優芽の物腰は、穏やかなものだ。しかしその瞳には、見る者を圧倒するような、凛とした強さが宿っている。
「私もまた、『女帝』と呼ばれる身……大悪魔である貴女と戦えることを、光栄に思います」
　羽織った真紅は、魂の特攻服。レディースグループの総長代理という、お人好しの優芽には似合わないいかつい肩書きが、確かに彼女へ力と勇気を与えていた。
「貴女がいかに幻影を見せようと、私が打ち払います！　いざ尋常に、勝負ですっ！！」
「くっ、生意気な小娘たちだこと……！　いいわ。あたしが大悪魔と呼ばれる所以が、幻術だけじゃないってこと……存分に教えてアゲル。
このムチでたっぷりと、ね！！」
　無数の鋭利な棘を備える鞭をしならせ、びょうと振り回すエローチカ。戦いはいつしか、肉弾戦へと突入しようとしていた。