【潜入】

　鹿島 あおい、すなわち三ヶ島 葵。裏と表、二つの名が示すように、彼女は二面性を持つ。もっともどちらの顔とて、本人にとっては目的を果たすための、単なる手段の使い分けに過ぎなかったが。
「なるほど。三ヶ島さん、あなたの仰る通り……今夜泥棒が、この絵を盗み出す。その密告が仮に、本当だとして」
　数か月前からここ、森繁美術館の警備主任を務めているという八咫 鏡の瞳に、鹿島、いや三ヶ島は、いささかの居心地の悪さを覚えずにはいられない。まるで少女のような可憐さに見えて、その視線の奥に垣間見える鋭さ、真っ直ぐな強さは、何もかもを……三ヶ島の裏の顔をも見通すようで、隙を見せれば、たちまち足元をすくわれるだろう。そんな確信のような予感が、三ヶ島の胸にはあった。
「あなたに、全館の自由取材許可を与えることが、我々にとってどんなメリットがあると？」
　だからこそ三ヶ島は、大いに騙る。
「もちろん、正義のため！　なんだよー！」
「……ほう？」
「正義は必ず、勝つ！　その決定的瞬間を是非とも、この希望のない世の中に、記事を通じて知らしめたいんだよー」
　三ヶ島が美術館側へと情報をリークしたのは、当然のこと、記事を素晴らしいものとするためだ。そのためには、口にしたような上っ面の方便も惜しみなく使うし、コウモリのごとく敵と味方の間を飛び回ることも辞さない。それが三ヶ島の志すやり方で、事実彼女はそうして幾度も、独自のスクープを手にしてきた。
　奇しくも、泥棒であれ、警備員であれ、そして記者であれ、目の前に鎮座する名画、瀬島 作太郎の『子猫を抱く女』を巡っては、各方面において極めて高度な手腕を持つ面々が顔を揃え、攻防は熾烈なものとなるだろう。
「ま……良いでしょう。許可します」
　正義。そんな言葉に動かされたとは思えなかったが、ともかく八咫は三ヶ島へそう告げ、館内の自由行動を許すフリーパスのようなものを渡して寄越した。
「……そんなに、あっさりと。良いのかなー？」
「アポを取ってきた時点で、あなたの素性はひと通り調べさせてもらいましたからね。少なくとも身元の確認は取れましたし、情報が本当ならば、私はあなたに見返りを支払うべきでしょう？　あなたの思惑はさておき……ね」
　当然ではあるが、必ずしも信用されたわけで無いのだろう。
　八咫は絵の裏側に、何やら『Lock』と記された黄色のテープを張り付けると、
「気休めですが、何もしないよりは良いでしょう」
「そのテープは？」
「時間稼ぎというところですか。それより、あなたには監視を付けさせていただきますよ……千歳飴さん！」
　呼びかけた先では、黒い長髪の内側を水色に染めた女が、スマートフォンの画面へしきりに指を走らせている。
「……ああ。主任。少しだけ待ってくれ、今、良いところなのでね……」
　ゲームアプリか何かに忙しいらしい女を、八咫はため息まじりに、千歳飴 楓子、と紹介した。お世辞にも仕事熱心なタイプには見えないが、ともかく彼女が、三ヶ島の監視役であるらしい。
「これから警察へも連絡を取りますが……人員は貴重です。優秀な警備員を、あなたひとりに割くわけにもいきませんからね」
「なるほどねー」
　用向きを全て伝えてから、管理室と忙しなくやり取りを始めた八咫をよそに、女、千歳飴がひょいと顔を上げ、無表情に言う。
「よし、ステージクリアだ。それでは、行こうか？」
　のろのろと先に立って歩く千歳飴の後ろにつきながら、三ヶ島はひとり、思惑通りの展開ににんまりと笑みを浮かべた。
（さてさてー。後は、泥棒くんたちの活躍次第、かなー？）

「楽しい記事になるように、頼むんだよー！」



　昼にあれほどの賑わいを見せた森繁美術館も、夜間ともなればひっそりと、星と月の下へ静かに佇んでいる。
　といって館内の警備が手薄になるわけではなく、むしろより一層の警戒態勢が敷かれていることは想像に難くない。何しろ相手はあの、八咫だ。やり手の派遣警備員との駆け引きは、ここに集った仲間たちにも、記憶に新しいことだろう。
　そして今夜、考え得る失敗へと対応する策について、各方面が心を砕いた結果。美術館の裏手、人通りの無い脇道に止めたワゴン車の横へと顔を揃えた面々の中には、奇妙な色が入り混じっていた。ひとりは、
「おや、これは可愛らしいお嬢さんだね。わざわざ、店主さん自らお届けかい？」
　暗闇に紛れつつも軽口を叩いた怪盗、八神 修へ、ついと両手でスカートをつまんでみせた『フェロー商会』店主。トワ・E・ライトフェロゥ。
「皆様のご活躍を、ぜひ間近で見物させていただきたいと思いまして。ゼヒゼヒ、頑張りやがってクダサイでごぜーます！」
「美人のギャラリーがいてくれるとは、張り切る甲斐があるというものだね」
　強固な警備の美術館へと盗みに入ろうというのに、八神だけでなく、彼らの表情はいずれも落ち着いて、この場を楽しんでいるそぶりすら垣間見える。
　しかしながら、今夜はそんな彼らの中へと混ざり、特異な空気を醸し出している者がいる。


　口元を歪ませたまま、ぎらついて舐めるような瞳を巡らせる、矢萩 咲。
「クロサキ機関とやらのお目付け役が、まさか、君だとはね」
「あァ……サキリ君。非常に残念なことに、君とのめくるめく愉しみは、今回はお預けなんだ。本当はねェ、今すぐにでもね……くふ、くくく」
「もちろん。僕もさ、あの素晴らしい剣戟に、すぐにも興じたい……しかし、今は少々、忙しくてね」
　サキリ・デイジーカッターの手には、日本刀。そして相対する矢萩の手には、幅広のブレード。互いの得物は入れ替わったまま、しかしあれほどの狂気を滲ませた矢萩も、自ら望んでその狂気へと迎合したサキリも、今夜はただ、剣呑な視線を絡ませるのみにとどまっている。
「僕は基本的に、皆さんの邪魔はしないので。安心して泥棒してきてください。ただし、クロサキ機関へ弓引くような行為を見つけたら、その時は容赦なく殺します。以上」
　中沢というパトロンを失った矢萩が、より危険な組織へと拾われていたとは、厄介なことではある。しかし少なくとも、二本の刃がそれぞれの主の手へと戻るのは、しばし先のことになりそうだ。
「さ、みんな、ご注文の品物だよ。確認してね」
　フェロー商会の擁するワゴン車の後部を桧垣 万里、いや千里が開き、小型無線通信機や暗視ゴーグル、盗み出すべき絵の贋作や、その他トワの用意した品々を下ろしては、仲間に手渡していく。
　そのさなかに、千里は思う。
（万里のご主人様は、僕にとっても同じようなものだし。彰尋君と楓君を、きっちりサポートしてあげなきゃね）
　鴻上 彰尋に夜海霧 楓、三人組のうち二人は既に、警備員として美術館の中へと潜り込んでいる。仲間たちが内部へと潜り込んだ際、撹乱の役割を担う予定だ。
　千里は、厳密に言って万里の兄では無い。そのつもりではいるものの、正しくはある種の、二重人格のようなものだ。千里は基本的に万里の記憶を共有しており、彼女の経験や感情はある程度、千里のものでもあった……万里のほうは必ずしも、そうではないようだが。
　万里はきっと、主人たるあの二人や、仲間たちの成功を願っているだろう。
（兄としては、それに応えてあげなきゃ。もちろん、久しぶりにこの身体を動かせる機会だって、めいっぱい楽しませてもらうけど♪）



「さて……お仕事モードはおしまいね」
　夜闇に消えていった彼らを見送ってから、トワは歳に似合わぬ達観した瞳で、夜に浮かび上がる美術館の威容を見上げ、つぶやく。奇妙なしゃべりの、ひたすらに明るい少女の顔は一時、鳴りを潜めて、
「そう。人生はままならぬものと聞くし……今夜はきっと、楽しいひと時になってくれるわ」
　少女の小さな声は誰ともなく、冷える夜気へと溶け込むように紛れ、消えてゆく。

「……フフ。皆様、存分に踊って下さいネ？」