アレコレひゃっはーの日｜リアクション

アレコレひゃっはーの日

　大天使天吏は九夜山に訪れた。山道の枯れ葉を踏み締めて黙々と足を動かす。立ち止まっては野鳥の囀りに耳を傾けた。
　天吏は白いニットワンピースを着て軽やかに歩く。その足取りが急に重くなった。敵意に満ちた右目を前方に向ける。登山に適した格好の男女がゆっくりと歩いていた。
　――こんなところにも人間が。
　天吏は周囲に目をやる。山肌とは逆の方向に僅かな轍を見つけた。小石や枝が散乱していて足場は良くない。躊躇することなく、踏み込んでいった。
　天吏は常緑樹の薄暗がりを進む。右手は急な斜面になっていた。狭い道ながらも左端を意識して歩いた。
　足の動きが徐々に速くなる。右目は前方に降り注ぐ光を見ていた。両腕を僅かに開いて身体ごと陽光に飛び込んだ。
　空から舞い降りた鳥のような姿でとどまる。懐かしむような瞳で天吏は空を見上げた。意識が吸い込まれるような青が広がっていた。
「……世界は本当に美しい」
　安らいだ顔に歪な感情が流れ込む。
　――この世界を汚す人間がいなければ、鳥達の美しさは永遠になるのに。
「私もいつかは」
　自虐的な笑みで空を眺めた。両腕を羽のように伸ばして回りながら陽気に歩く。
　世界が斜めに傾いだ。
　泥濘に足元を掬われた、と思った時には遅かった。右手の斜面に身体は投げ込まれ、転がり落ちていた。
　斜面に敷き詰められた枯枝が容赦なく天吏を刺した。小さな赤い点を頬や手の甲に作った。新雪のような白いニットワンピースには黒い泥を塗りたくられ、低木の枝が繊維を引っ張って至る所に穴を開ける。
　悲惨な状況下、天吏は物静かな表情を見せる。灰色の右目が頻りに動いた。
　――確か、この先には鳥の水飲み場があったはず。
　場所を把握した途端、天吏の表情に焦りのようなものが滲んだ。転がり落ちながらも山笹の一部に手を伸ばした。掴んだものの、一瞬で引き剥がされた。掌には複数の切り傷が出来て血が染み出す。
　下の方が明るくなってきた。天吏は嫌がる子供のように頭を振った。
　その時、斜め下の太い幹に目がいく。直感に等しい速度で身体を捻り、幹に自身の背中を打ち付けた。
　鈍い声が喉から零れた。天吏は弓なりで止まると今度は身を丸めた。右目を強く閉じて痛みに耐えるように震える。
　間もなく幹に縋り付くようにして起き上がった。金色の髪に枯葉が何枚も刺さっている。頬や手には数え切れない数の傷を負った。握り締める拳からは今も血が滴っている。ニットワンピースはすっかり汚され、見窄らしい風体となった。
「良かったわ」
　疲れ果てた顔で天吏は笑う。今一度、空を見上げた。張り出した枝の中程に鳥の巣を見つけた。
「うるさくして、ごめんなさい」
　項垂れた姿で斜面を横に移動した。何回か足を滑らせて見慣れた山道に出た。
「名残り惜しいけど」
　山頂を一瞥した天吏は逆の方向に歩き出す。途中で中年のグループに出会った。ハンカチやタオルを差し出して事情を聞いてきた。
　天吏は微笑みを絶やさずに答えた。
「鳥の楽園を守れて、私は幸せよ」
　差し出された好意の全てを手で拒絶した。周囲は訝るような目で引き下がる。
「さようなら」
　天吏は不安定に上体を揺らしながら歩き始めた。その笑みはどこか清々しい。
　――さようなら、人間さん。
　一度として振り返ることなく、山を下りていった。