【旅の途中】

　返り血の汚れ。小さくとも少なくない、あちこちに刻まれた傷。跳ね上げた湖水が冷たく染み入るのも構わず、司令塔を欠きまごつき始めた屍人の群れを切り開き、湖を渡り切った彼らは、街の周囲に高く築かれた城壁の只中へぽっかりと開いた扉へと駆け込み、ちらほらと追いすがる屍人たちを振り切って、どうにか彼らを締め出すことができました。
　身重のニヴィエにはさぞきつい行軍であったろうと、気遣う彼らが振り返れば。彼女は大粒の汗を額へにじませ前髪を張り付けながらも、
「はあ、ひい……あッぶなかった、わね……！　けど、助かった、わ……ふう、はひい。みんな、生きてて良かったわ！」
　にか、と歯を見せ、笑いました。



　夜明けを控えた西の街は、彼ら一行を出迎えるでもなく、まだ暗闇の中に沈み、ひっそりと静まり返っています。
『みんな、だいじょうぶ……？』
　スケッチブックへ書き付けた小山内 海の言葉は、少し震えています。彼女を始め、戦いなどには向かない面々は揃って、ほっと安堵の息を吐きました……深手は無きにしろ応急処置は必要で、
「ああ、ケガ、こんなに……今、治します！」
「……大事が無くて良かった。お腹の子にも……」
　フィリップ・ヨソナラや毒島 林檎がさっそく傷を診てはいるものの、ファシナラとニヴィエも含め、誰ひとり命を落とすことなくあの冷たい湖を渡り切ることができた喜びを、彼らは隣の友人たちと、素直に分かち合いました。
　そうしてしばし、気を落ち着かせ、荒くなっていた息が静まってきた頃に。
「それにしても……ずいぶん、静かだね。みんな、まだ寝てるのかな？」
　くるりと辺りを見回して言った雨寺 凛。
「……そろそろ、日も昇ろうってところなのに。静かすぎるね」
　呉井 陽太の言葉には、いつもののんびり気質は垣間見えません。
　街には、ひとつの明かりもなく。火を焚く煙や、誰かがこそりとでもささやく声すら聞こえず。
　ちくり。胸に覚えた不安に、海はスケッチブックをきゅっと強めに抱きながら、
（でも……この街に着きさえすれば、ファシナラさんも、ニヴィエさんも、お子さんも助かって……）
　どこかに人の姿、できるなら医者のひとりも探そうと、足を踏み出そうとした……その時に。
「……！　小山内さん。足元、気を付けてください」
　屋敷野 梢が、いつになく真剣な表情で呼んだ声。彼女が指差す先、まだ暗い足元を、注意深く見下ろしてみれば。
（っ……！？　これって……！？）
「あー。あはは。まぁ、半分くらい、予想はしてたンだけどねェ……やっぱりかぁ」
　努めて明るく言ったニヴィエの声も、どこか沈み込んでいて。
　震える足先を、そろりと退ければ……それは名も知らぬ誰か、恐らくは街の住人のなれの果て。亡骸でした。
　よろけた海の背を、三夜 茜が支えつつ。ファシナラを静かに見つめて、
「……これは？　君たちは、分かってたのかい？」
「いや……そうであって欲しくは無いと、願っていた。お前たちと出会ったことで、ここまで諦めずやってくることが出来た……が、なまじ希望を抱いていた分、正直に言って、こたえるな」
　赤く滲み始めた地平線、そこから差し込むかすかな日の光に照らされる、街を通る大通りの様相を眺めて。彼は、疲れたように言いました。
「……流行り病さ…………」
　いつもより優しい仕草でニヴィエを伴い、民家の壁を背に力なく腰を下ろしたファシナラは、しばし明け方の空を見上げた後。ゆっくりと、口を開きます。
「こいつにかかると、ある者は身体が石のように固まり自由を奪われ、ある者は正気を奪われ暴れ回り、肌や瞳が赤みを帯びた後、やがて死に至る……俺たちの故郷、東の街は、その広がりの途上にあったに過ぎん。逃れた者は、稀だ……あの屍人とて、例外ではなかった。見たろう、奴のあの目を」
「……あいつ……あの瞳」
　鴻上 彰尋が、先の光景、ボロ布フードの下から現れた顔と、そこに輝いていた光を思い出し、つぶやきます。
「茜色……だった」
　皮肉な笑みを口元に貼り付け、ファシナラは胸元から取り出した石を眺めて、複雑な表情を浮かべます。
　ローシルティウム。ここへきて、彼らのふるさとやこの街から喧噪の声を奪い去った病、その原因と、その宝石に何らかの関わりがあろうとは、誰にも思いもよらないことでした。
「この石の由来は、先に語った通りだ。それ以上のことは、俺たちにも分からん……伝わってもいない。なればこそ、ニヴィエと子の救いを求める傍らに、探求の徒たるこの街の術士に石を託し、病の広がりを止める術を見つけてくれれば……とな」
「あっはは。ちょーっと遅かったみたいだけどね、残念ながら」
　夫妻の言葉に、恵御納 夏朝はふと、あの海と空の街へと思いを馳せます。かの地では、ローシルティウムは人々を導く大切な灯りであり、誰もがあの巨大な茜色の結晶へと、感謝を述べていました。知り合った旅芸人の一座も……それがここでは、ずいぶんと状況が異なるようです。
　夏朝は、沈み込んだ空気に何かを感じ取ったのか、足元へすり寄ってきたアルクを、胸に抱き上げます……首元には、茜色の宝石。ローシルティウム。思えば、あの屍人が光物を好むと聞いた時、真っ先に思い当たったものが、この石でした。
「アルくんは……どこから来たの？　どうして、旅をしてるの……？」
　にゃあ、と。どこ吹く風で、アルクは夏朝の腕の中の心地良さに、身を委ねるのみ。
　もちろん彼は、不思議な力を持っていながらも、その本質は気ままな一匹の猫に過ぎません。何かを知っているわけでは無いのでしょう……恐らくは直観で、夏朝や仲間たちにも、それだけは理解できました。
「……これから、どうするのかなぁ？」
　壬生 由貴奈が、夫妻へと尋ねます。彼らがすがるべき街医者の姿は無く。ニヴィエの出産も、そう遠くはないことでしょう……彼らは、どうするのか。誰もが言葉少なながらも、等しく、ふたりを案じています。
「また違う街を目指して、旅をする？　それとも、ここで……」
「さて……」
　ファシナラの声に、もはや戦士の威厳はありません。
「どうしたものかな……」



　……けれど。けれど。
　静まり返った街から、彼らへと届く、しわがれた声がありました。声は彼らに、あの砂まじりの風を切り裂き空から差し込む、明るい光条を思わせたかもしれません。
「やれ、運が良いやら悪いやら……ようも、この終わりかけた街へ来なさったな。旅人さん。屍人どもに、昼の熱風夜の寒気、尋常ならざる道程であったろうに」
　目を見張る彼らの視線が集まると、現れたひとりの老人が、きょとんとしたニヴィエの丸いお腹へと目線を向けます……彼が羽織っているのは、薄汚れてはいたものの。それは、白衣でした。
「……！　ご老人、あなたは……もしや」
「うんむ。西の街の最後の住人であり、最後の術士にして、最後の医者よ」
　ファシナラもニヴィエも決して、この街を目指すにあたって、幾度も続くような奇跡を当てにしていたわけでは無かったでしょう。過酷で絶望的な道のりに、半ば諦観に心を占められながらの出発であったはずです。
　けれど、ふたりは白黒猫を連れた不思議な一行と出会い、そしてこの老人と出会いました。
　痩せぎすで落ち窪んだ戦士の目から、ひとすじ、すう、と雫が流れたとしても。決して、彼を笑う者はありませんでした。
「…………これも……いずこの神の……」
「喜ぶにゃ早いぞ、旦那さんよ。街はこんな有様で、薬も残りわずか……それに奥さん、今は幾月だね？　そう猶予は無かろうよ」
「へっ？　ああ、はいはい、えっと……こンだけです」
　珍しく慌てた表情で、ニヴィエは指折り数えて、それを老人へと示して見せます。
「うんむ。これも定め、私のできる手は尽くすが、それでも万全とは言えん。覚悟はしておくべき……」
「大丈夫、ですよ」
　意外にも力強く断じたのは、儚くも優しい微笑みを浮かべた、綾辻 綾花。
「必ず、元気なお子さんが生まれますから。絶対に、大丈夫です」
「そうです、そうです。いつも通りに、明るく、元気に笑っていれば、きっと大丈夫ですよー」
　薄野 五月のいささか間延びしたマイペースな言葉にもまた……いいえ、だからこそ。きっと、希望を見出すことができたはずです。
「……うん。あンがとね。そうよね、きっと大丈夫。大丈夫……」
　と。
　ニヴィエの目尻にも浮かんだ、丸い涙粒の中へと……ぱちり。ぱち、ぱちと。弾ける茜色の光が混ざり始めたのは、奇しくも、そんな時のこと。
　にゃああ、なおう、長く尾を引く鳴き声を響かせた、白黒猫。無邪気なアルク。彼が、あるいは彼の擁する力が、一行を別のいずこかへと、再び導こうとしているようです。
　ぱち。ぱちぱち。ぱちり、ばち、ばちり。
「…………行くのか」
　並んだ夫妻は、今や誰はばからず互いの手を固く握り合い、緩やかに細めた目でこちらを見つめています。奇跡に救われたふたりは、彼らがこうして唐突に去るのだとしても、もはや理由を問いはしません。
　代わりに、
「我らのために傷を負い、妻を労わり慈しみ、俺と剣を並べて戦ってくれた、お前たちのことを……俺は生涯心に刻み付け、そして子らに語り継ごう」
「ほんとに、ありがと！　おかげでアタシ、おっ母ちゃんになれそうよ。もちろんこれからも、ウンザリするほど大変なンだろうけど……でもね」
　ばち、ばちり、ばち。ばぢぢ、と光は幾度も弾けて、燐光をまき散らし……夫妻のこぼす涙を、より一層鮮やかな茜色に染めていき。
「アンタたちにもらった命だもん。絶対、この子と、ファシナラと……生き抜いてみせるから」
「……っ」
　駆け出したのは、海。彼女の手には、スケッチブックから切り取った、一枚の紙。あの夜に、ギターの音色や歌を聴きながら、この世界を描き留めておこうとスケッチした、三つ子の月。鏡面湖……興が乗り、二枚も描いてしまったうちの一枚。別れ際に託したいと思っていた、
（いつか、私も……お母さんに、なるのかな。ニヴィエさんみたいな、素敵なお母さんに……）
　海の、心を込めた絵。お腹を抱えたニヴィエに代わり、ファシナラがそれを受け取り、大きくうなずきました。
「感謝する。お前たちの旅路に、幸多くあらんことを……」
　ばぢぢ、ばぢん。視界は茜色、一色に染まりゆく中で、林檎がたまらず、叫びました。彼ら、仲間たち全員の想いを代弁して、手を繋ぎ見送るふたりの泣き笑いへと、高らかに。
「……元気な赤ちゃん、産んで！　お幸せに……！」
　にゃあお、と鳴き声。すぐにもばちり、ば、づん。















『…………絶対……赤ちゃんと、三人で、幸せに……なるんだもん』
　胸中に、優しい祈り。
　茜色が晴れ、林檎は次なる世界……濃密な自然の香りに満たされ、空も見えないほどに高くそびえる、見たことも無い形の樹々が形作る鬱蒼とした森を見上げて、頬を滑り落ちる雫を、そっと親指で拭いました。

＜『さまよいアルク』　つづく＞