【夜襲】

「おーい。起きてくださーい」
「……ん、ぅ……」
　まどろみの中に届く声。腕にはあたたかい、ふわふわな毛並みの感触……綾辻 綾花はゆっくりと身を起こすと、まだ寝入ったままのアルクの背中、白黒の境目をそっと撫でて、ふぁ、とひとつあくびを噛み殺しました。彼を抱いていたためか、短くも心地良い眠りの中、何か良い夢を見ていたような気もします……けれど綾花はそれを思い出す間もなく、声の主である屋敷野 梢を見返して、
「おはようございます……といっても、まだ夜中ですね」
「あいつらがまた集まってきて、すぐに移動しないとマズそーです。手早く、身支度をお願いしますねー」
「ええ、分かりました」
　梢が他の面々を起こして回るのと入れ違いにやってきて、大岩の下を見据えたのは、三夜 茜。ぎらと灯る赤い瞳が、幾つも、幾つも、こちらを見上げて……きい、ききい。ききき、きき、きいい。不快な声は、高所へまでも届きました。
「湖に降りる前に、陽動が必要だね。僕が引き受けよう……一服してからね」
　くわえ煙草の彼女があたりをぐるりと見まわすと、後から後から、続々と集まってくる赤い光。屍人、スカベンジャーたちはこの岩の上へは登れずとも、この数にすっかり取り囲まれてしまったなら、降りることもままならず。そうなる前にと、ファシナラは鏡面湖へと降り、西の街まで一直線に突っ切るという、苦渋の判断を下したようです。もちろんそのさなかに、遮る岩も砂風も無い湖で、あの小さな影たちと一戦を交えることになるのは、誰にも明白でした。
　戦闘準備を整える面々の中で、茜は転がっていた大きな岩を抱えて、背にはばさり、とアホウドリのような大きな翼。
「さて、急降下爆撃と行こうか。ジェリコのラッパは無いけどね」
　彼女は、飛び立ちました。
　やがて下方から届く、ずしん、という衝撃と、ぎいと鳴く声を聞きながら……綾花も準備を整え、そしてアルクを揺り起こします。
「さあ、行きますよ」
　ふにゃふにゃと気の抜けた声で鳴いた白黒猫に苦笑いしつつ、彼を抱き上げると、綾花は仲間たちに続いて、湖へ垂らしたロープへと向かいます。



　ぱしゃ、と綾花が水面に映る月へと触れれば、確かに鏡面湖の水位は極めて低く、すぐにも滑らかな手触りの湖底が手のひらに触れました。
「っ……冷たいですね」
　もう数時間もすれば、双子の太陽が揃って顔を覗かせ、暴風と共にあの熱気も戻って来ようものの、夜明け前の今はぐっと冷え込み、湖水に足を浸せば、全身をくまなく震えが走るほどに身体が冷えました。
　赤暗い瞳の群れは、茜の陽動の隙に湖へと降りた彼らの両側から、波のように押し寄せてきます。程なく接触することになるでしょう……八神 修は、半ば睨むようにそれを見据えながら、
「妊婦の貴女に、冷たい水の上を歩かせるのは辛いところだが……残念ながら、今は備えが無い。代わりに全力で、守らせてもらう」
「きッききき、気にしないで！　それよりあの屍漁りども、よっよよよ、よろしくねッ？」
　がたがたと震えながらも、ニヴィエは修へ、自分の拳銃を託しました。彼は射撃部の部長であり、実銃を扱うに当たってもその知識と経験が生きて、少なくとも彼女がやみくもに引き金を引くよりは大きな成果が得られるはずです。
　ニヴィエへ寄り添う弘明寺 能美子は、彼女の肩へふわりと薄布をかけながら、目線で示した修へとうなずきます。
「分かってる。ニヴィエさんとアルクは、任せて」
　能美子のお腹のあたりがぽっこり、傍らの妊婦に似てにわかに膨らんでいるのは、服の下へアルクを収めてかばっているためです。彼はすぽっと顔を出し、ぴりりとした緊張感を感じ取ったためでしょうか、にゃあおう、といつもより少し尖った鳴き声を上げました。
「さて。ここからが、僕の役目だね」
　サキリ・デイジーカッターは、黙したまま鋭い眼光を屍人へと向ける戦士、ファシナラの隣に立ち、彼が腰に帯びる銀剣をちらと見つめて、
「使い込まれた、良い品だね。その剣で、ファシナラさんは、ニヴィエさんを守ってきたんだね」
「……まあな」
「刃が、僕に教えてくれる……気持ちが伝わってくる。だから、僕もそれに応える」
　にい、と口元を歪めながら……すらり、両手で抜き放つ刃。
「さあ。狩りの時間だ……」
　意識を眼前の戦いへと染め上げた彼は、抜身の刀剣と変わらない鋭さで飛び出し、迫る群れへと斬り込み……戦いは、弾ける鏡面湖の水飛沫と、血煙を合図に始まりました。



「危ないッ！」
　ぎらと鈍く輝く鉤爪。抱き込んだアルクともどもニヴィエへ覆いかぶさり、能美子は背を刃へと晒します。自身で担うと決めたのは、盾代わり……身を挺して守ることを選んだ彼女に、ためらいはありません。
　ざざ、と跳ね上げられた湖水が円弧を描き……すんでのところで、ぱぱん、と二度の銃声。修が飛び掛かってきた屍人の一体を宙にて撃墜し、叫びます。
「陣形を維持しつつ、前進するぞ！　戦える者は左右を固めてくれ！　殿には、ファシナラさん、あなたがついてくれ！」
「心得た！」
　敵の数は多く、到底全てを相手にはしていられません。歩みの遅いニヴィエを中心に据え、周囲を仲間たちが取り囲み小さな影たちを迎撃しながらに、一歩一歩を着実に踏みしめ進みます。
　絶え間ない水音、銃声に刃を振るう風切り音がいくつも響く中、鴇波 羽衣がケープを羽織りながらに駆け出し、
「オーデンさん、ごめんなさい！　肩借りまーす！」
「どうぞ、お気をつけて、お嬢さん！」
　一行の中でもひときわ背の高いオーデン・ソル・キャドーの背を蹴って、空へと飛び立ちます。
　羽衣の左手には、手鏡。未だ蒼く、そして強く降り注ぐ月光を照り返して一点を、敵の目を突けば、極めて有効な目くらましになりました。増幅された光に瞳を射抜かれ、ぎい、ぎぎいと声をあげ怯んだ屍人へは、
「今だよー、武道せんぱい！」
「よしきた！」
　志波 武道がすかさず喉元へと真っ直ぐに手刀を突き入れ、ろっこんによって相手を麻痺状態へと追い込み、
「お願いします！」
「ふッ」
　彼の要請に応えて鋭く打ち込まれたのは、オーデンのステッキ……一見華奢な樫の杖に見えて、護身用でもあり、先端には強固な鋼の石突が備えられています。フェンシングの動きで突きを見舞えば、一体一体は小さく脆弱な屍人を無力化するのには、十分な威力がありました。
　羽衣が空を飛翔しながらの目くらまし、時には右手に持った棒きれで一撃を加え、ヒットアンドアウェイ。怯んだ敵を、巧みな身のこなしと冷静な観察眼で立ち回る武道の手刀が、寸分違わずに突き入れられ。動きを止めたところへ、オーデンによるトドメのひと突き……流れるようなコンビネーションに、オーデンはステッキをくるりと翻し、きゅっとシルクハットをかぶり直して、
「お嬢さんの援護はありがたいですね……それに少年、あなたもなかなか、戦い慣れしていらっしゃる。もしもの時には、背中を預けてもよろしいですか？」
「もちろん、まっかせてくださぁい☆　よーし、次行きまショー！」
　彼らが背負うのは、ニヴィエや、能美子の懐のアルク。
　それに、戦えずとも彼女らを守ろうと、支えようと共に進む、綾花。雨寺 凛。申し訳程度の盾代わりに、折り畳み傘を広げた恵御納 夏朝も。
「皆さん、絶対に、ニヴィエさんたちを守りましょう……！」
「おーっ！」
「みんなの、命も……アルくんも。奪わせない……！」
　傍らにはぴたりと寄り添い敵の刃を阻む、薄野 五月、鴻上 彰尋も……その場の誰もが、自身の役割を果たしながらに、少しずつ、一歩ずつ。刺さるような冷たい水を踏みしめながら、先へと。
　……目指す対岸のほとりに横たわる街に、夜闇と変わらない暗がりが降りていることを、この時にはまだ。気付く者は、ありませんでした。