本とあなたの物語｜リアクション

本とあなたの物語

【思い出と共に佇む古書喫茶】

　長い時を経るにつれ、本というものは独特の香りを放つようになります。突き詰めればそれらは本に使われた紙やインク、のりなどの化合物の香りであったりするそうで……あるいは以前の持ち主が染み付けた、生活感溢れる匂いだったりもしますけれど。いずれにしろそれらは、本たちがこれまで過ごしてきた日々や年月を物語る、大切な証のようなものなのです。
　そうした古い本独特の匂いを嫌う人も中にはおりますけれど、懐かしくも新鮮な未知との出会いを求めて古書店へと熱心に足を運ぶような特定の層にとっては、これがたまらなくイイ香りだったりするわけなのです。
　ともかくも、ここ古書喫茶『思ひ出』にもまた、そうした人々を魅了してやまない、素晴らしい本の香りが満ち満ちておりました。
（……この本は、どこか花のような香りがしますね）
　『思ひ出』店主の甥っ子、津島直治にとっても、それぞれに異なる本たちの香りは、実に興味をそそるものです。
　店主である叔父さんに任された本棚の整理に勤しむ中、彼がふと手に取り思わず開いてしまったのは、一冊の本。表題には、『輝くひと』とありました。どうやら数十年も前に発行された、いわゆる青春小説といった部類の物語ようで、ほつれて黄ばみがかった白いカバーには色褪せた男女の像……昔は鮮やかだったのだろうと思わせる、味わい深い抽象画が描かれています。
（うちの店に、こんな本があったとは……）
　店内の棚に収められている本たちはあまりに膨大で、日頃からそれらに触れている直治であっても、時として見たことも無い本との出会いを経験することがあるのです。
　ついつい整理の手を止めて、すん、と特有の草木のような香りを堪能しつつ。直治はページをぱら、ぺらり。
　主人公は、ひとりの少年。舞台は発行当時の日本。激動の時代にあっても彼の家は裕福で、幼い頃からさしたる不自由も無く、少年は漫然とした日々を送っていました。
　煌びやかに着飾り夜毎社交の場などに出かけてゆく両親、兄や姉たちを横目に、少年の目には彼らの身につけた豪奢な衣服や宝石など、全てが取るに足らない、つまらないものとして映ります。誰しも羨むような生活ながら、少年にとってそんなものはすっかり見慣れていて、彼の暮らす豪邸だって、鬱屈した暗い空間のようにしか思えません。
　そんな少年の曇った瞳へ、ある時自室の窓から眺めた景色の中、どんな宝石よりも美しく輝くものが映り込みました……それは、ひとりの少女。近くに住む何の変哲も無い村娘、けれどそのはつらつとして輝くような明るい笑顔こそ、少年が今までに見たことの無かったものであり、彼が心の奥底で望んで止まない……。
「こんにちは、お邪魔します」
「っ」
　扉が開く音とかけられた声に、直治ははっとして、ぱたんと本を閉じました。
「ああ……木次さん。いらっしゃい、ご注文は？」
「コーヒーをもらえる？　砂糖とミルクもお願い」
「分かった、ちょっと待ってて」
　ちょくちょく顔を見せるクラスメート、木次要の来店で、直治はすっかりのめり込んでいた意識を本から引き剥がし、仕事に戻ります。彼はこの店の居候でありまして、店主である叔父にお客の応対を任されたからには、もちろんほったらかしで読書に耽っているわけにもいきません。
　とはいえ本は、
（後でゆっくり、読むことにしましょうか）
　そっとカウンターの中、邪魔にならないところへ、こっそりキープ。仕事のお手伝いと引き換えに許された、直治のささやかな役得というものです。
　再び入り口の扉が開いて、
「わ……古本の、良い香りがする。あの、こんにちは……」
「あ、えと、いらっしゃい」
　続いて、恵御納夏朝が来店。初めて訪れるお客には、ちょっぴり緊張して居住まいを正しつつも、
「ご注文は？」
「それじゃ……サンドイッチと、オレンジジュースで」
「うん、分かった。適当にくつろいでて」
　徐々に訪れ始めたお客たち。かといって、そう広くも無い店内は騒がしくなるでもなく、漂うのは穏やかな空気……さっそくに本棚を覗き始めた要は、そうした雰囲気を気に入ってくれているようですし、初来店の夏朝だってきっと、ゆったりと読書を堪能しつつ心落ち着けることができるはずです。
（叔父さんの道楽でやっているお店かと思えば……意外と、常連の方もいらっしゃるのですよね）
　カウンターの中で調理など始めた店主、叔父さんを少しばかり眺めて、居候たる直治もまたお店に貢献すべく……少しでも恩を返すべく。先ほどキープしておいた本の続きにはちょっぴり後ろ髪を惹かれつつも、ひとまずお手伝いに本腰を入れることにしました。

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