空を漕ぐブランコ｜リアクション

空を漕ぐブランコ

　
　
　大天使天吏は無表情な視線で、今自分が座っている椅子のような装置を見下ろしました。
（……いったい私は何をしているのかしら）
　ある時期から、他者と話す時は相応の表情を作るようになった彼女ですが、今この場にいるのは天吏１人だけ。人間らしい心が芽生えている演技なんて必要ありませんから、彼女は一切の感情を廃して、その装置を観察し点検します。
　椅子のようなその装置の構造はとても単純で、彼女の肩幅よりも少し広い程度の板が、２本の金属製のチェーンで吊り下げられている、というだけの代物でした。
　一般的にはこの装置は「ブランコ」という名称で呼ばれており、そもそも装置と言いますか、子供が乗って遊ぶための遊具の１種なのですが、天吏はそのことを知りません。
　子供時代の彼女は、ブランコで遊んだことなんて、いちどもありませんでしたから。
（何に使う装置なのかは、まだ検証の必要があるけど……）
　それでもともかく、この椅子は空中にぶら下がっており、どうやら自分が逃げ場のない空の只中に囚われている、ということだけは理解できました。

　自由を誇示するように、さあ君はどこにでも行けるよ！とでも謳うように。青空はどちらの方向にも万遍なく広がっていますが、そんなものは見せかけです。天吏にはちゃんと分かっています。
　彼女が愛する鳥ならばいざ知らず、この身は、人間は、飛べません。
　ここから飛び降りても、ただ真っ逆さまに落下してしまうだけ。
　言わばここは、空の牢獄。ここから脱出できるのは、死ぬ時だけです。
　それでも……、天吏は空中から落ちるということに、恐怖は感じていませんでした。
（なぜ人間は飛べないの）
（こんな脂肪と骨の塊に、どうして私は生まれたの）
　そんなどうしようもない苛立ちともどかしさの方が、先にこみ上げてくるからです。

　キィー、コ…………
「えっ……？」
　けれども身をよじった拍子に、その装置が連動して動き、天吏は思わず声を上げていました。
「この椅子は……動くの？」
　前に向かって少しだけ進み、そして同じ分だけまた後ろに退がる、その椅子を見下ろし、天吏が呟きます。そして思い出します。ニュートンの運動の第２法則を。
　物体に力が働く時、物体には力と同じ向きの加速度が生じる。
　その大きさは力の大きさに比例し、物体の質量に反比例する。
　そして物体の動く方向、力には方向が存在し……
（この装置は、振り子運動を行うためのものなのでは？）
　天吏はそう推測してみました。

　その推測に則って、天吏は自らの身体を動かしてデータを取り、検証を重ねてみます。色々と試した結果、足を揃えて漕ぐような動きをするのが、最も効率が良いようでした。
　自分の肉体を振り子のおもりだと考え、後ろに戻っていく時には膝から下を畳み、前にまた進み出すのと同時に、つま先を振り出すようにするのです。こうするとおもりの重心が変化し、往復する毎にブランコの振れ幅が大きくなる。つまり加速します。
　天吏は思います。
（……このまま加速し続ければ、私もクローネ様のように）
　空を飛ぶことができるでしょうか。
　人間のこの身でも、空を飛ぶことができるでしょうか。
（次で、試してみよう）
　天吏は全身で風を切り、最後の助走のひと漕ぎを行います。
　ぐわぁん、と続いて大きくブランコが後方に引き戻され、天吏のちっぽけな身体が、水平よりも高い最高点に達します。アーチを描いて眼下に横たわる２本の鎖は、もはや橋にも等しい長さ。
　けれども、ここで飛び降りても意味はありません。位置エネルギーが０だからです。
　この身体を放り投げるのは、ブランコが最高点から最下点へ向かう途中──
　そう、今です！
　天吏はぱっと鎖から手を放し、虚空に全身を投げ出します。
　風圧で髪が舞い上がり、左目の眼帯が千切れるように剥がれて、後方へと飛び去ります。
「あ……」
　天吏は大きく両目を見開きます。
　生まれたてのその瞳に、真っ青な大空が映り込み、その時確かに彼女は、

　空を──
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　