空を漕ぐブランコ｜リアクション

空を漕ぐブランコ

　
　
　ふと気が付けば独り、空のブランコの上に座っておりましたので。
　浅葱あやめはロープを握り締めたまま呼吸を整え、それからゆっくり呟きました。
「……さて、どうしようか」

　もちろん驚きはしましたが、ブランコから見下ろす空の青はどこまでも深く果てしなく、高さすら忘れて見入ってしまいそうです。そしてあやめはふと、眼鏡の奥の瞳を瞬かせて。もういちど今言った自分の台詞を、乾いた舌で繰り返してみるのでした。
「『どうしようか』──だって？」
　何処とも知れぬ高い高いブランコの上で、四方に見えるのは空だけ。今置かれているその状況よりも、そんな台詞が他でもない、この自分の口から出てきたことの方が、よっぽど驚きではないですか。
（暫く前の僕だったら、きっと、途方に暮れてしまっただろうに）
　自分には空を飛ぶ能力も、このロープを登り切る体力もないと。
　すぐにうつむいて解決を諦め、座り込んでただ時が経つのを──そんな自分を責めながら──じっと待っていたに違いありません。
　なのに、今の自分はともかく、思考停止しない前向きな言葉を口にしている。これは、変化でしょうか？
（そう……少しずつ、変われている、と、思う。
　成長、と、言っていいだろうか？
　これっぽっちで情けないとは思うけど）
　それでも、変化には違いありません。自分を守るように丸めた猫背も、血色の悪い顔も、陰鬱な目つきも相変わらずですけれど、ここは誰の視線も気にせずに済む、空の上。
　だからあやめは、少しだけ背すじを伸ばし、その顔を空に向かって上げてみます。

（それに、何より……普通でない、自分と、向き合おうと、思い始めてる。
　同性愛者である自分を、否定しないようにしよう、と……。
　……まだ、難しいけれど）
　ブランコはあやめを乗せたまま、相変わらず空の真ん中で頼りなく揺れています。もういちど、今度ははっきり、あやめは言ってみました。
「さて、どうしようか」
　やっぱり空は飛べませんし、このロープを上まで登りきる自信もありませんが、それでも例えば。
　立ち上がるだけなら、この自分にもできる筈。
「落ちないよね、これ……」
　両足をいったん座板の上に引き上げ、不安定な姿勢になった時にはぞくりとしましたが……うん、しっかりロープを掴んでいれば、大丈夫。揺れるブランコを２本の足で踏みしめ、あやめはそろそろと慎重に立ち上がります。その背中を真っ直ぐに伸ばしきり、最後にため息のような深呼吸。
（少しずつだけど、自分を認めて、やっときっと、これからなんだ。
　やっと今、立ち上がったところ。
　これできっと、前に進める。……たぶん）

　とは言え、このブランコから１歩でも前に踏み出せば、真っ逆さまに落ちてしまいますから。やっぱり今現在『どうしようか』という状況には、変わりない訳ですが。
（思い切って、呼びかけてみようか）
　そんなことを思う自分にまたびっくりしますが、声なら出せます。所属の劇団で、喉は鍛えています。
（でもここは、舞台の上じゃなくて、僕は、僕のままだ。
　ここにいるのは、演じる『誰か』じゃなくて、ただの僕）
　そんな何者でもない、ただの僕でしかない裸の声が、気付いてもらえるのでしょうか。
　この何もない空を渡って、誰かの耳に届くことがあるのでしょうか。
（届くと、いいな）
　そうしてあやめは真っ直ぐ、空の彼方を見つめます。
　何もない空の向こうに、誰かがいることを信じます。
　深呼吸をし、遠くへ呼びかけるように、少し上を向いて、それから思い切って、

「……おーーーい！！」

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