小さな夢を抱いて｜リアクション

小さな夢を抱いて

　日頃の睡眠が足りていないのか。蜂矢時生は早々にベッドで横になった。虚ろな目で軽く握っていた手を開く。中から小さな灰色の狼の縫い包みが現れた。
「割と可愛い。スマホのクリーナーにもなりそうだ」
　時生は揉むようにして何度も握る。徐々に瞼が下がってきた。
「手触りもいいな」
　頬に縫い包みを押し当てる。瞼は完全に閉じて静かな寝息が部屋を満たしていく。

　横向きで眠っていた時生の表情が険しくなる。瞼を開けると小さな狼が無防備な右腕を噛んでいた。
「……なんでおれの腕を噛むんだ？」
　狼は噛むのをやめた。時生は眼鏡の位置を正した。腕を摩りながらパジャマ姿で身を起こす。
　待っていたかのように狼が口を開けた。赤黒いナメクジのような舌を垂らし、それは急激に伸びて時生の胴体に巻き付いた。
「これはやばいかも」
　立ち上がろうとした瞬間、強い力に引っ張られた。狼の身体が肥大化した、と思った時には飲み込まれていた。
　時生は爛れた肉色の穴に身体をぶつけながら落ちていく。広い空間に出ると一瞬、目を閉じた。
「今度は空か」
　一回の瞬きで世界が一変した。空に投げ出された時生は無意識に両腕を広げた。片方に紐のようなものが絡まり、落ちる速度が緩やかになった。顔を上に向けると大きな風船が目に付いた。
「運が良い、訳でもないのか？」
　遙か上空に点が見える。急速に迫って狼の形に変貌した。前脚の鋭い爪で易々と風船を切り裂いた。
　時生は狼と共に白い雲に突っ込んだ。手が何かを掴むような形になる。白い霧状のものは虚しく指の間をすり抜けていく。
　時生の落下が唐突に止まった。柔らかいものが全身を受け止めた。
「雲に乗れるのか」
　唸り声を耳にして考えを改める。時生は巨大な狼の背中に乗っていた。振り落とされそうになり、腹這いの姿勢で凌いだ。
　狼は猛然と空を駆けて地表を目指す。真っ先に目に留まったのは巨大な釜であった。中には濃厚な赤い液体が煮え立っている。
「まさか、火口に――」
　遠吠えを上げる中、狼は無骨な釜の中に突っ込んでいった。時生の視界は赤く燃えて意識が溶けた。

　二度目の目覚めは狭い檻の中であった。仄暗い岩窟のようなところで無数の狼に囲まれていた。だらりと出した舌から涎を滴らしている。
「ごちそうしてくれる、雰囲気ではないな」
　檻に鼻先を突っ込んだ狼が時生の頬を舐め上げた。
「おれがごちそうなのか」
　ずれた眼鏡を上げようとした。指に触れるものがない。
「え、眼鏡がない？　落としたのか」
　手を下にやると柔らかい。布団が敷いてあった。狭い檻の中、目が見えない状態では何もできない。
「仕方ない、寝るか」
　掛布団を手にした時生は仰向けの姿勢を取った。役に立たない目は早々に閉じられた。緩やかに息を吸って吐いた。何度目かの途中で急に詰まり、弱々しく咳き込んだ。
　目を開けると巨大な狼に押さえ込まれていた。異様な輝きを放つ眼がゆっくりと下りてきた。
「オ、オマエは俺ダ」
　耳障りな異音が混じる声で言った。
「おれが狼のはずが」
　狼の迫り出した鼻が急速に縮んで凶悪な牙が見えなくなる。顔を覆っていた毛は消え失せて頭部に限定された。最後に人間らしい銀色のフレームの眼鏡を掛ける。
「狼がおれ？　なんでだよ、俺は――」

「時生だ」
　その声に目を覚まし、ぼんやりと天井を見た。手の中には小さな灰色の狼の縫い包みが握られている。
「きみ、面白いな」
　手の中の狼を弄りながら、不意に動きを止めた。
「きみの名前は、確か聞いたような……そう、きみの名前は幻狼（げんろう）だ」
　柔らかい笑みで時生は口にした。