小さな夢を抱いて｜リアクション

小さな夢を抱いて

　稲井いおねは仰向けで掛布団を引っ張り上げた。目を閉じる直前、胸元に抱いた一体の縫い包みを顔の前に掲げる。金髪で赤い眼鏡を掛けていた。
「やっぱりママに似ているのです」
　人形に頬擦りしたあと、胸の上に乗せる。
「夢でもいいから、ママに会いたい……」
　
　ピンクのワンピースを着た、いおねがソファーの肘掛けに頭を乗せて眠っていた。鼻が頻りに動く。目を開けると、そこは両親と住んでいたアメリカの家だった。
　ゆっくりと上体を起こす。赤い眼鏡の奥の目を擦っていると横手から食器を扱うような音が聞こえてきた。
　いおねは瞬間的にキッチンへと顔を向ける。
「静かに料理しようと思ったんだけど、起こしてしまったみたいね。いおね、もう少し待っていて」
「そう、なのですね。楽しみ、なのです」
　僅かに怯えを含んだ声でいおねは返した。キッチンには母親の声をした等身大の人形が忙しなく動いている。声が豊かな反面、表情は固まっていた。
「……不気味なのですよ」
　その呟きのあと、皿が割れるような音がした。人形は下を向いて少し悲しそうに見える。いおねの視線に気付いたのか。自身の頭をコツンと叩いた。
「ごめんね。久しぶりだからかな。お皿を落としてしまって」
「ママの調子が悪いのなら、私が手伝えばいいのですよ！」
「ありがとう。割れたお皿は危ないから、いおねはチキンに衣を付けてくれる？」
「任せて欲しいのです」
　いおねはシンクで手を洗う。水分を入念に拭き取り、パレットに並べられたチキンを手にした。ボールの中の粉に万遍なく付けていく。
「香辛料のいい匂いがするのです」
「ママの特製ブレンドよ」
　砕けた皿の処理を終えた人形が少し胸を反らして言った。
「油の様子も見ないと」
　丸っこい両手を使って火加減を調節する。鍋の中を覗き込んで、いいわね、と納得の声を出した。
「ママに代わって私が揚げていくのですよ」
「助かるわ。その間にママはサラダを作るわね」
　人形は用意した食材へと向かう。その仕草に懐かしさを覚えたのか。いおねは、ママみたいです、と表情を緩めて呟いた。

　大皿に盛られたフライドチキンが食卓に運ばれた。小皿に盛り付けられたサラダには赤や黄色の色彩が鮮やかに踊る。
　用意を終えてテーブルに隣り合って座った。いおねは人形に照れ臭そうな顔を向けた。
「仕上げのタイミングはママがいないと無理でした」
「そんなことはないわ。衣の色と音の変化を覚えたら、いおねも一人で上手に作れるようになるわ。冷めないうちに召し上がれ」
「いただくのですよ」
　いおねは目に付いたチキンを手にして中程に齧り付いた。黙って味わうように口を動かし、表情を歪ませて目尻から大粒の涙を零した。人形は丸っこい手で頬に流れる筋を拭った。
「美味しくなかった？」
　人形の声にいおねは頭を左右に振った。
「懐かしいママの味が、美味しすぎたのです」
「今の生活が辛い？」
　無表情な人形の顔に母親の悲しそうな面影が重なる。
「ママがいないのは寂しいです。でも、今日はママと過ごした、楽しかった毎日を思い出すことができました。二度と忘れないから、いおねは大丈夫なのですよー」
　いおねの精一杯の笑顔に人形は頷いた。縫われた口元が微かに笑っているように見えた。

「目が覚めたのですよ。とても良い気分なのですー」
　いおねは布団から出てカーテンを開けた。朝陽を全身に受ける。笑みを作る目元には夢の名残り、白い涙の筋が見て取れた。