【思い馳せる】

　ぴたりと止まってしまった車両に、津島 直治は何事かと、内心ちょっぴり驚きましたものの。聞こえてきた車掌さんの声によれば、どうやら大事では無い様子。
　ほっ、とひとつ安堵したところで、
（気長に待ちましょうか。とはいえ……連絡は入れておかないといけませんね）
　携帯電話を取り出し、彼は居候中の家の主である叔父さんへ、遅れる旨を伝えておくことにします。といっても、電車の中で電話をかけるのはやはり気が引けますもので、メールをぴこぴこ。手早く打ち込んで、送信！
『電車とまった。遅くなるます』
　……携帯の操作とか、慣れてないのです、彼。
（メールは面倒ですね……でも電話だと、周囲に迷惑がかかってしまいますし。いえそもそも、電車の中で携帯電話って、使用しても良かったのでしょうか……？）
　生真面目な直治がそうして、考え事に思考を傾け始めた、その時に。
　しゅたたたた！　足元をしゅたたっと通り過ぎていく、何やら白くて小さな……。
（……犬？　でしょうか……電車の中に？）
　見間違いかと思いましたら、にわかに車内が騒がしくなっていることに、彼も気付きました。
「こーいこいこいこい……って、そっちに行ったらダメですよー！」
「興奮していて、おもちゃもササミも目に入らないみたいだな……さて」
　逃げ回る小型犬、白いチワワへ向かって、わきゃわきゃっと手を動かして誘う椿 美咲紀に、クールに作戦を頭へと巡らせる八神 修。
「挟み撃ちにしよう、それなら確実だ」
「そうですねぇ、では私は、あちらへ回りましょうか」
　先のふたりとも協力して、じりじりと包囲網を狭めていく音羽 紫鶴に、齋藤 智照。
　見れば、飼い主らしき女性の慌てた様子も目に入りまして、どうやら逃げ出してしまったワンちゃんの捕獲作戦を敢行中なのだと、直治にも分かりました。
　しゅたたたた！　あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、元気に走り回り飛び跳ねる、白いチワワの『ペコちゃん』。狭苦しいペットケージから抜け出した先は、やっぱり狭い電車内……けれど小さな犬には、それも大いに開かれた大冒険の舞台なのかもしれません。張り切って駆け回るペコちゃんは美咲紀の手をすり抜け、修の股下をくぐり紫鶴の足の周りをぐるぐる回ってから、智照のほうへ。伸ばした手を、ころんっ！　と転がって通り抜けると、ご機嫌な様子で再び、軽快に走り出します。
　直治は。そんな小さな犬の脱走劇に、ふと、思い出すことがありました。
　ついつい、重ね合わせてしまうのです。
（……まるで……逃げ出してきた、今の私のようですね……）
　名家と呼ばれる、彼の実家。その息子たらんと常に求められる、あの息苦しく、窮屈な生活。そこから逃げ出して、寝子島にまでやってきた直治。心配そうな飼い主さんのあたふたとした様子を見れば、思い出してしまいます。
　どうしても、両親のことを。
（母様や、父様も……私を、心配してらっしゃるのでしょうか……？）
　そんな風に思った瞬間、直治は、大きく頭を振りました。昔を振り払うかのように、大きく。
　深く考えるのは、やめにして……そう心に言い聞かせながらに、直治は、言いました。
「……俺も、手伝ってやるよ。挟み撃ちにすればいいんだな？」
　心の内は慇懃丁寧、口を開けばぶっきらぼう。自分を変えるというのは、なかなかに難しいものです。
　ともかく直治は彼らに協力して、飼い主のもとへ、あのチワワを戻してあげることに決めました。



　というわけで、５人でチワワのペコちゃんを取り囲んで、じりじり。
　するりとすり抜けられたり逃げられたり、しばし振り回された後に……気付けばペコちゃん、ぺろりと舌を出しまして、へっへっへっ……と荒い息。さすがにそろそろ、お疲れのようです。無理もありません、あんなにも小さいのですから。
　紫鶴がささっと合図して、
「僕らはこちらから行こう。君は、そちらを頼むよ」
「ああ。任せろ」
　直治もうなずき、いよいよ作戦も佳境の時。じりりっと囲んだ包囲網を、徐々に狭めていきます。
「そろそろ、小腹も空いてきた頃ですかねぇ」
　と智照が言ったのは、ペコちゃんがじーっと、美咲紀や修の手にしたササミのおやつを、熱心に見つめているように見えたからです。小さな身体でさんざん動き回ったもので、確かにお腹も空く頃合かもしれません。
　おめめが、きらーん！　俄然張り切りだしたのは、美咲紀ちゃん。ササミをふりふり、
「こーいこいこいこい……あ、来た？　こっち来ましたよ、ほら！　おいでおいでー！」
　しゅたたたたっ、猛然と駆け出したペコちゃんへ、美咲紀は両手を広げてお出迎え。ばっちこーい！
　小さなチワワは、その中へと飛び込み……はせずに。
「あ、あれー！？」
　美咲紀の脇をしゅたたたた、スルー！
　代わりに。どごむっ！
「うおっ！？」
「や、やっぱりシュー君のほうに行くんですね……くぅ、悔しいっ」
　弾丸のようなイキオイで飛び込んだのは、修の胸の中でありました。
「はは、こいつめ、くすぐったいじゃないか」
　修の腕に抱かれたペコちゃん、ぺろぺろぺろんと彼の頬っぺたを舐めまくり。
　ともかく一同、ほっ。捕獲作戦は無事成功！　となったのでした。



「ああっ、ペコちゃん！　勝手に出ちゃメーでしょ、メー！　でも、本当に良かった……皆さん、ありがとうございます～！」
「いえ、お安い御用ですよ。大事にならなくて良かった」
　飼い主さんの女性も安堵の表情を浮かべて、５人へペコペコ。頭を下げつつ、お礼を述べました。
　もしゃもしゃとササミをかじり出したペコちゃんをよそに、美咲紀はふと、女性が手に提げたケージを見て、
「あ！　ここが壊れちゃってるから、逃げちゃったんですねー。とりあえず、ガムテでちょいちょいっと！　直しておきますね」
「ああっ、もう何から何まで、ありがとうございます～！」
　美咲紀も所属する新聞部の取材のため、何かと重宝するガムテープを、彼女はいつも持ち歩いておりまして。ぺったんと壊れたペットケージに応急処置を施してあげてから、ついでに美咲紀は、お礼の代わりに愛らしいチワワの写真を一枚、ぱしゃりっとゲット。
　そしてもちろん、念願の、ワンコまふまふも！
「……はぅん！　癒されるー！」
　ペコちゃんの手入れの行き届いた滑らかな毛並みを、まふまふまふ。ああ、至福のひと時！
　そんな彼女へ、修はにやり。
「美咲紀、俺の家に寄っていくか？　犬と触れ合いたいんだろ」
「はぅん！　な、何たる魅力的なお誘い……！」
　彼の自宅には三匹のワンちゃんがおりまして、美咲紀はばっちり、心惹かれてしまいます。
　そんなふたりの横合いから手を伸ばして、直治もまた、ペコちゃんの背中を撫でなで、まふまふ。
「……もう、勝手にどこかへ行ったりするなよ。心配、させるなよ……？」
　どうにも感情移入してしまったらしく、彼は神妙な顔つきでそう言いました。
（私も……人のことは、言えませんけれど、ね）
　いつか彼も、この小さな犬のように、戻るべきところへと戻る時が訪れるのかもしれません。そんな風に考えると、自然、複雑な思いが胸へと湧き上がり……気付けば一心に、なでなでなで。
　彼らを眺める、紫鶴と智照。どうにか無事に収まって、ふたりの胸にもまた、充実感がありました。
　西日に少しばかり目を細めつつ……智照はふと思い立って、
「そうそう……」
　と、傍らの紫鶴へ、言いました。
「自然がお好きなのでしたら。うちの境内にも、季節の花々や、それらをゆっくりと眺められる、憩いのスペースなどがありましてねぇ」
「へぇ、それは興味深いね。お寺は旧市街のはずれ、だったかな？」
「ええ。良かったらいつでも、息抜きにでも。遊びにいらしてくださいねぇ」
「ああ、ぜひ見に行かせてもらうよ」
　笑顔でうなずいて。そういえば名前も名乗っていなかった、と自己紹介も交えつつ、ふたりは握手。
　ふいにぽっかり、一見無為にも思える空き時間も、こんな出会いがあるのなら。それはあっという間に、素敵な時間へと早変わり……何だか、悪くはないものなのです。