猫又川でのんびりと｜リアクション

猫又川でのんびりと

　喘ぐような呼吸の中、塔ヶ崎璃亜が山道を一人で登っていく。白い長袖シャツに同色のトートバッグを小脇に抱えていた。地面から突き出た石に身体は翻弄されて貧血のようにも見える。
「……川はまだでしょうか」
　伏せていた青い瞳を上げた。道は大きく右に曲がって先が見えなかった。
　璃亜は小刻みな歩みを止めた。来た道を未練がましく振り返る。辛いです、と口にして道なりに登っていった。
　ふらふらとした足取りが安定した。歩く速度が僅かに上がる。
「川です。猫又川に着きました」
　華奢な身体を震わせて喜んだ。
「お嬢ちゃん、元気そうだな」
　少し遅れて黒いジャケット姿の飛吹蓮太郎が現れた。背中に茶色いリュックサックを背負い、シャベルを杖代わりにして登ってきた。おはようございます、と璃亜は頭を下げる。
「おはよう。お嬢ちゃんも温泉が目当てかな」
「はい、そうです」
「疲れた身体には温泉だよな！　俺は世界一のイケメンだから群がる女性で疲れがピークだぜ！」
「大変ですね」
　璃亜は労わるような表情で返した。途端に蓮太郎の挙動がおかしくなる。
「え、ツッコミなし？　バイトのくせに、とかで返さないのか」
「嘘なのですか」
「いやいや、真実だよ。世界一のイケメンなんだぜ！　疲れるのは当たり前だよな！」
「そうですね」
　璃亜はにっこりと微笑んだ。蓮太郎は直視できなくなり、行こうか、と川の上流へと歩き出した。何の疑問も抱かず、璃亜が後を付いていく。
　先頭に立った蓮太郎は周囲に向かって鼻を動かした。僅かな水溜りを見つけては四つん這いになって匂いを嗅いだ。
「温泉の匂いとは違うなあ」
　落胆を隠し切れない蓮太郎の側で璃亜は双眼鏡を手にした。ゆっくりとした動作で全方位に目を向ける。
「温泉の煙も見えません」
「そうか。源流まで行かないと無理かな」
　二人は周囲に注意を払いながら源流まで辿り着いた。一目で温泉と分かるようなところはなかった。
　蓮太郎はリュックサックから地図を取り出した。左右の木々に目を向けて渋い顔を作る。どっちかなあ、と地図に目を落とす。
　右手から風が吹いた。璃亜は風に背中を向けた。
　反対に蓮太郎は風に立ち向かう。思い切り、息を吸い込んだ。
「見つけたぞ！」
　蓮太郎はシャベルを肩に担いで駆け出した。木々の中に突入しても足を止めない。身体に当たる枝を物ともせずに奥を目指す。
　天上から位置を指し示すかのように光りが射し込む。それを受けて地面の一部が楕円の輝きを放ち、薄らと湯気が立ち昇っていた。
　蓮太郎は歩きながら脱ぎ始めた。瞬く間に上半身は裸となり、ズボンとパンツは同時に下ろして踏み付ける。
「俺の温泉だぜ！」
　全裸で跳び上がり、尻から落ちていった。

　璃亜は完全に出遅れた。慌てて蓮太郎を追い掛ける。親指大の背中は木々に紛れて見えなくなった。
　姿を見失った直後、獣の吠えるような声が辺りに響いた。
　無意識で璃亜のろっこん、『運命の輪』が発動した。その反動で本人は木の根に躓いて派手に転んだ。湿った土のおかげで怪我は免れたものの、顔には泥が飛び散っていた。
「酷い目に遭いました」
　仕方なく璃亜は来た道を戻って汚れた手や顔を川で洗い流した。
「どうしましょうか」
　心細い声を出し、川の下流を見つめた。足が一歩、前に出た。二歩と続いて下流に向かって歩き出す。
「温泉に、浸かりたいです」
　青い瞳に憂いを滲ませて下っていく。

　蓮太郎は飛び込んだ先で目を丸くした。一帯は海のように広大で透明度が高く、色鮮やかな珊瑚が眼下に広がっていた。
「息が苦しくない！？」
　海中にいながら陸上と同様に息ができる。上を見れば入ってきた楕円の光が揺らめいていた。
「温泉どころの話じゃない！　桃源郷の入り口だったのか！」
　その時、艶っぽい笑い声が左右から聞こえてきた。蓮太郎の胸や腰に女性のなよやかな腕が絡み付く。
「女神様に天女様！？」
　右手の神々しい光を纏う女性は慈愛に満ちた笑みを湛える。左手の薄布に身を包んだ女性は豊かな胸を押し付けてきた。間に挟まれた蓮太郎は淫らな表情で二人の腰に腕を回す。
「俺のイケメンは人類を越えたぜ！」
　二人の女性は揃って笑う。行きましょう、と同じ言葉を蓮太郎の耳元で囁いた。
「この俺をどこに連れて行ってくれるんだ？」
「心も身体も蕩けてしまうところよ」
　二人の女性は身体を密着させた。艶やかな脚が白い蛇のように蓮太郎の太腿を絡め取る。
「どこへでも行ってやるぜ、グヘヘヘ」
　蓮太郎は下卑た笑いで二人を同時に抱き締めた。

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猫又川でのんびりと

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