猫又川でのんびりと｜リアクション

猫又川でのんびりと

　桜花寮の一室。大柄な羽生碧南が机に着いて熱心に本を読んでいる。勉学に励んでいるのかと思えば、背表紙には『秘湯を訪ねて』と印刷してあった。机に積まれている本も同じで温泉に絡んだ内容のもので占められていた。
　長い間の読書で、ふと集中が途切れた。机上の時計が目に入る。驚いた表情で碧南が立ち上がった。
「もうこんな時間！？　早く温泉を探しにいかないと」
　着ていたジャージを脱いで白いスポーツウェアに着替えた。下のジーンズはそのままで、足元に用意したリュックを背負うと慌てて部屋を出ていった。
　部活の延長上の格好で碧南が道沿いを走る。
「こんな時間になるなんて思わなかったよ」
　前方の信号は赤であった。走る速度を落としたところで右手にねずの湯が見えてきた。横目で捉えて、温泉なのかな、と疑問を口にした。
　赤信号で足止めされている間に思いを巡らす。
「温泉かけ流し。きっと、そう。そうなると、やっぱり墓地の裏手が怪しいよね」
　青信号となり、碧南は軽やかにスタートを切った。墓地に繋がる道を入って左手の駐車場へと曲がる。木々が密集した手前で足を止めた。事前に用意した虫除けスプレーを掌に噴霧して首や手に擦り込んだ。
「温泉、見つかるといいな」
　少し弱気な台詞で歩き出した。木々の中に入ると急に温度が下がったような気がしてスポーツウェアの上から腕を擦った。
「温泉はあるよね」
　問い掛ける口調で奥へと踏み入る。仕入れてきた知識で植物に目を向けた。
「違うかな」
　蜘蛛の巣は落ちていた枝を駆使して払い除けた。四方から伸びる枝を跨いで、時に身体を窮屈そうに縮めて前進を続けた。
　視覚だけに頼らない。碧南は嗅覚も活用した。僅かな変色も見逃さず、鼻を近づけては匂いを嗅いだ。
「キノコの匂い」
　他のところも当たる。ただの腐葉土であった。見つからないよ、と不安を口にする。太陽が遮られた場所で顔を曇らせていった。
「一人の残念会で、ねずの湯になりそう……」
　堆積した落ち葉を踏み締めて歩く。その足を止めた。一方に向けて耳を傾ける。
「なにか、聞こえるわ……水の音かな」
　定めた方向に歩き出す。表情は明るくなっていた。
　目の前に岩が現れた。目測の高さでは二メートル以上。碧南の身長を越えていた。水は岩の上部から流れているようで、緩やかな放物線を描いて地面に落ちていた。その部分の土が弾かれ、中から座るのに適当な石が露出していた。
「微かに温泉の匂いがするね」
　岩に身体を寄せた。手を伸ばして放物線の根元に触れる。
「上は熱いわ」
　指先を振って下の方に手を入れる。ふいに笑顔が零れた。
「良い感じ。これなら打たせ湯に使えるかも」
　リュックを傍らに降ろした。スポーツウェアを脱いでトレーナーの裾に手を掛けたところで周囲を窺う。人なんていないよね、と軽く口にして一気に脱いだ。中には紺色の水着のワンピースを着ていた。
「これくらいの用意はするわ」
　ジーンズを脱いで少し身体を震わせた。早々に露出した石に座った。右肩で放物線の先端が当たって弾ける。
「ああ、なんか熱くて気持ちいい～」
　折り曲げていた両方の膝が伸びた。頭を下げて首の辺りにも当ててみた。
「ああ、そこそこ」
　誰かに親指で押して貰っているような声を漏らす。伸ばした両脚をバタバタと上下に動かした。
「それじゃあ、左も」
　左右を均等に受けて首筋に戻る。
「頭のマッサージとかあるけど、打たせ湯も効くのかな」
　興味を覚えた碧南は思い切って頭頂に受けた。上下に頭が揺れる。
「ちょ、ちょっと、これは痛いかも」
　調子に乗った自身を反省して、肩と首だけで、としおらしく言った。

　結構な時間、碧南は打たせ湯を楽しんだ。
「肩と首が軽くなったよ」
　頬をほんのりと染めて道へと戻ってきた。ねずの湯を横目で見て、銭湯もいいかも、と表情を和らげた。