沈黙の恋人たち｜リアクション

沈黙の恋人たち

　傍らで、さらさらとシャープペンシルを走らせるのは朝鳥さゆる。
　よどみなく、迷いがない。頬杖をついて、瞳に力はないが、それでもノートの字は几帳面で美しい。

　テストに苦痛を感じたことも、結果に喜びを感じたこともない。
　心のかよわぬ相手と、躰を重ねるように、淡々とした行為だ。

　めったに寝子高に出席しない彼女。
　空漠として、白っちゃけた街を、それでもあてどなく彷徨する。
　けばけばしい夜の街を、彼女はさまよう。

　苦痛でしかない時間。高校に行けばまだしも、気はまぎれるだろう。
　翳のある美貌の彼女に、薄汚い笑みを浮かべる中年男とも、同族とでも思ったのか、気安く声を掛けてくる、蛆虫のごとき面皰面の同級生とも、出会わなくてすむ。
　それでも、足を向けない。何かのうしろめたさなのかもしれないし、いらだたしさのせいなのかもしれなかった。

　表には、散り急ぐ銀杏の大木。
　午後の光を振りまき、舗道に影を作っていた。
　憂愁の気分が、彼女の心に垂れこめていた。

　ラインマーカーを取り出し、臭いに顔をしかめて、ノートに線を引いていく。
　緻密な文字が、鮮やかに結ばれる。
　整理しつくされたノートは、そのまま彼女の明晰さを示していた。

　たいていのことは一度聞けば覚えられる。
　定期的にノートにまとめていけば、テストで苦労することはない。

　割合テストは嫌いではなかった。要領がよかったのだろう・
　あまりにテストが早く終わってしまったため、申し訳ないような気分になり、時間つぶしに苦労したこともある。

　たいして真面目に授業に出ているわけではないが、成績は上位層。
　東京の国立だって、難なく狙うことができる。
　進路相談に乗った担任は親身になってくれたが、あからさまに悪意に満ちた目線を送ってくる大人もいる。
　扱いにくいのだろう。
　髪を振り乱し、他人を蹴落とさなければ未来がつかめないと思っている人たちには、自分のような存在は許せないはずだ。
　
　世界史をまとめおわり、古文の教科書とノートを開く。
　重要事項を抜き出し、教師がおそらく狙ってくる部分を拾い上げる。
　効率よく、要点を押さえ、そこを集中的にやりこむ。
　短期集中型で対応可能。
　３日目のテストも、難なく解いた。
　

　そのペンが、不意に止まった。

　彼女の頬を、自嘲の笑みが彩る。

　――何やってるのかしらね、こんなところで。

　破滅以外の将来の見えない自分。
　どうあっても、救われることのない自分。

　生真面目に、試験勉強などしたところで、何になるのだろうか。
　試験が未来をつなぐ行為ならば、破滅以外の未来図の見出せない自分が、テストで良い点をとることに、何の意味があるのだろうか。

　習い性、あるいは、性格というやつか。
　それなりに何事も几帳面にこなしてしまう。
「くだらない」ことでも、律儀にやっつけてしまう。
　逃げるための口実にしない。軽蔑する連中と同列に扱われたくない。

　案外とこうした、破滅の一歩手前で律儀に振舞ってしまうことが、自分を決定的な地獄から遠ざけているのかもしれない。
　そのような、咄嗟の身体的な反応を知性とよぶのなら、彼女は間違いなく際立って頭のよい存在なのだろう。
　地獄に逆落としになるはずが、宙宇に漂い続ける、煉獄の炎に焙られ続ける存在。
　みじめであるが、それが自分にふさわしいのかもしれなかった。

　ともあれ、生真面目にノートをまとめ、テストに備えるという行為は、割合嫌いではなかった。
　内奥に開く憂鬱は、それでも止まらないけれど。

　――ドンという音がして、誰かが廊下に走り去った。