沈黙の恋人たち｜リアクション

沈黙の恋人たち

　手洗いの蛇口が、甲高い音を立てて締められた。
　排水溝が渦を巻いて、汚れたシンクに水の跡が残った。

　葉利沢倫理子は、顔を上げる。
　汚れた鏡の先にいるのは、ひどくやつれた、美しい少女。

　彼女を見舞った凄惨な事件は、心身ともに彼女を失調させていた。
　天井の影に、歩廊の隅に、蟠った悪意を感じる。

　冷たかった。水の滴る音だけが響いていた。
　苦痛と恐怖は一時のことで、あとは麻痺しきった躰が、無様に湾曲し、軋んだ。

　二度と思い出したくない。なのに、夢魔は彼女の心を押し入り、何度でも悪夢で蹂躙する。
　トラウマは、その傷が癒えぬ限り、常に膿み、ただれて、苦痛の鞭を振るう。

　夏を超えて、彼女は不調が続いた。
　外出もままならぬまま、捩れたシーツに包まる日々を過ごし、１０月になった。
　薬の処方などを行い、医者は外出の許可を出した。

　病み上がりのせいか、躰が重い。
　躰だけではなく、心の方がひどく重い。
　何をしていても、過去の記憶が彼女を鞭打ち、そのたびに自分は毀れて、二度と戻れぬのだと自覚する。
　毀れて、汚れて、二度と綺麗にならぬ存在。

　突然の発作だった。
　白濁する光の中、歪む世界。
　嬌声。ひずんだベース音。生臭い、野獣じみた悪意。

　全身から汗が吹き出した。息が荒くなる。冷たいものが背筋を伝う。
　限界だった。手巾で口元を多い、廊下へ走りでる。
　視界がおぼろに歪んだ。胸がつかえた。

　手洗いから出ると、午後の青空が広がっている。
　光の溢れる青空。あの景色から自分は遠い。

　虹彩を刺す光のせいか、再び倫理子の瞳に涙があふれる。

　あの空には無数の網が張られ、小鳥をとらえようとしている。

　柱廊の傍らに身を預け、倫理子は自分の躰をじっと抱きしめた。