何も死守しない普通の一日｜リアクション

何も死守しない普通の一日

　旧市街にある、またたび市動物園は休日もあって人で賑わっていた。
　その中に岡野丸美の姿があった。ニットの茶色いセーターに動き易いデニムのハーフパンツを履いていた。子供に混ざって園内を小走りで見て回る。胸には大きなスケッチブックを抱えていて、気に入った動物の前で開いてスケッチに勤しんだ。
「こっちよ。こっちを見て」
　木の枝に逆さまにぶら下がるナマケモノに声を掛ける。少し声を強めると顔がこちらを向いた。丸美は笑顔で手を振った。
「ちょっとタヌキに似ているかも」
　目尻を大いに下げて喜びを露わにした。当のナマケモノは急速に関心が薄れた様子で顔を背けて動き出す。
「あやや、描くの忘れてたよぉ」
　同じように横に移動して食い下がる。こっちー、と呼んではみたものの、二度目の感心を引くことは出来なかった。
「仕方ないねぇ。カピバラを描きに行こうかな」
　スケッチブックを閉じて歩き出す。良い天気だね、とポケットからハンカチを取り出して額に当てた。結構な汗が出ていた。
「なんだか、喉が渇いちゃった」
　小さな店舗に自然に目が行く。透明な容器には色鮮やかな液体が入っていた。丸美の小さな喉が上下した。
「オレンジジュースをください」
　丸美は大ぶりな紙コップを受け取った。結構な重量で持つ手が少し震えている。そっと唇を近づけて喉を鳴らして飲んだ。
　吐き出す息と共に笑顔になった。
「甘酸っぱくて美味しい～」
　丸美は半ばスキップするように歩いた。足元が疎かになった途端、僅かな突起に躓いて紙コップが大きく傾いた。オレンジ色の飛沫が近くにいたピーター・ビアズリーに掛かる。
「ご、ごめんなさい」
　頬を赤くした丸美はスケッチブックを慌てて小脇に挟んだ。あれ、と言いながらポケットの中に手を突っ込んでいる。その間にピーターは自前のハンカチをスーツの袖に押し当てた。
「グレーのスーツだから問題ないよ。カメラは無事だし。それにジュースくらい誰だって零すものじゃないかなぁ」
「でも、染みになっちゃうかも」
「ほら、見てごらんよ。全く目立たないよねえ」
　ピーターが差し出した袖には僅かな濃淡くらいの差しかなかった。
「あ、大丈夫っぽい、かな？」
　丸美は袖の一部に顔を近づけて、赤いかも、と口にした。ピーターは改めて目をやり、まいったねえ、と眉尻を下げて笑った。
「この染みは朝食の時に私が付けたケチャップだねえ。いや～、お恥ずかしい限りで」
「そうなんですかぁ。びっくりしちゃった」
　旧知の仲という風に打ち解けた二人は簡単な自己紹介を済ませた。
「ビアズリーさんは一人で来たんですかぁ」
「そうだよ。丸美君もかい？」
「はい、あんまり天気がいいから絵を描きに来たんですよ」
　ピーターは顎を摩りながら鷹揚に頷く。
「ここで会ったのも何かの縁だねえ。どうかな、一緒に見て回らないかい？」
「こちらこそ、お願いします！」
　頭を下げた勢いで、またしても紙コップが大きく揺れる。ピーターは急いで手を添えて支えた。
「大丈夫かい？
「今度はなんとか、無事でした」
　二人は顔を見合わせて笑う。程良く力が抜けたところでピーターが周囲に目を向けた。
「最初はどこに行こうかねえ」
「レッサーパンダはどうですかぁ」
　丸美の提案で二人は水辺エリアを回ることにした。