何も死守しない普通の一日｜リアクション

何も死守しない普通の一日

　刻人・F・ミセリアはマンションの自室で目を覚ました。
「眠気はなくて、気分すっきりだね」
　少し寝癖の付いた側頭部に手を当てて洗面所に向かう。
「ん、昨日は何ともなかったのに」
　洗面台の鏡の下方に目を向ける。稲光のようなヒビが入っていた。人差し指の腹で摩ってみる。
「汚れじゃなくて本当に割れてるんだね」
　パタンと何かが倒れるような音が聞こえた。刻人は部屋に戻って周囲に目をやる。写真立てが手前に倒れていた。窓は閉まっているので風のせいではない。
「うーん、なんだろうね。今日はこの部屋にいない方がいいのかな」
　刻人は出掛ける用意を始めた。丸首の紺色の長袖シャツに黒いスーツタイプのジャケットを羽織る。右耳にシルバーのピアスを嵌めて白いスラックスを履いた。ショルダーバッグには大学で必要な教材を入れた。
「今日はスニーカーにしよう」
　玄関で履き心地を確かめるようにして外に出た。
　マンションを出た直後に黒猫が前を横切った。刻人は笑って見送った。
「この島には猫が多いから不吉という程ではないよね」
　歩道を行くと赤信号に出くわした。待っている間に刻人の前を霊柩車が通り過ぎた。
「これはちょっと珍しいかな。親指を隠さないと親の死に目に会えないとかだっけ」
　突然のことなので親指を握る暇はなかった。青信号となり、急いで車道を渡る。周囲に多少の注意を向けながら刻人は大学の門を潜った。
「文化人類学の講義はあっちだね」
　軽い足取りで歩いていった。

　講義室はがらんとしていた。大半が詰まらなそうな顔でスマホを弄っている。刻人は適当なところに座ってショルダーバッグから教材を取り出した。
　ゆっくりとした歩みで初老の男性教授が現れて講義が始まった。延々と一つの歴史を語り、派生した風習を黒板に書き連ねていく。所々に下線を引いて口頭で伝えた。
「なんか眠くなるね」
　言いながらもノートに要点を書き写していった。
　刻人の瞼が落ちそうになる。時に頭を小刻みに振って眠気を追い出した。強い瞬きを繰り返し、苦行に近い九十分を乗り切った。
「意識が飛びそうになったよ」
　柔らかい笑みで刻人は席を離れた。
　廊下を歩いていると別の教授に声を掛けられた。講義に関わる話ではなかった。ゼミの学生を交えた飲み会の誘いであった。
　刻人は微笑を浮かべて、いいですよ、と快く返す。別れたあと、おもむろに口にした。
「僕は未成年なんだけど、ジュースの飲み会なのかな」
　いいか、と自身で思考を打ち切った。明るい陽光の中に早足で突っ込んでいった。
「あれ、なんだろう」
　違和感を覚えた刻人は足元を見た。ああ、と声を漏らす。蝶結びの片方の紐が切れていた。
「そんなに履いた記憶はないのにね」
　その場にしゃがんで紐を手に取る。切断面は滑らかで消耗した状態には見えなかった。
　すかさず頭上でカラスが鳴き始めた。刻人は座った姿で見上げた。大きなハシブトカラスが大群で旋回している。
「さすがにこれは普通じゃないね」
　一瞬、刻人の顔から笑みが消えた。鋭い眼でカラスを睨み付けると、一際、大きな鳴き声を上げて散り散りに逃げていった。
　ふらりと刻人は立ち上がる。大学の構内を歩く頃には通常の姿に戻っていた。
「……この先、僕の身にどんな災厄が振り掛かるのかな」
　穏やかな表情で自身の未来の凶事を口にした。