何も死守しない普通の一日｜リアクション

何も死守しない普通の一日

　白いタートルネックに黒いコートを羽織った矢萩咲が和菓子屋「萩屋」から跳び出すようにして出てきた。どこか表情も明るい。長いポニーテールを機嫌よく振りながら通りを歩く。
　秋物の洋服の店を目にすると、赤いタータンチェックのミニスカートを翻して立ち止まる。ショーウインドウに顔を寄せて、もう少し探すか、と名残惜しそうな目で離れた。
　咲は興味深い目を店舗に向けた。やがて軽快な足取りは人並みの速度に落ち着いた。今は引きずるような歩き方になっている。
「……何なのだ、この状況は」
　赤い眼光を方々に放つ。腕を絡めた若い男女は気にすることなく、自分達の世界に浸っていた。見詰め合った果てに甘ったるい愛称で呼び合う。咲は耳を掻き毟るような動作で走り出した。
　行く先々で甘い囁きが聞こえてくる。男女が身体を密着させる。街灯に背中を預けた男性の足の間に太腿を差し入れる女性までいた。厚い胸板に頬を寄せて、抱いて、等の声が聞こえてきた。
「どこを見てもカップルの山ではないか！」
　咲は声を荒げて拳を握る。固めた拳が微かに震えて、ふっと解けた。自嘲を込めた笑みが顔に張り付く。
「……人を好きになるのは仕方がない」
　ぎこちない笑みで目を伏せると足を速めた。
　まるで誰かに引き留められたかのように立ち止まる。咲は周囲に視線を飛ばした。
「誰だ？」
　押し殺した声で聞いた。周囲にいた人々は咲の形相に怯えたような表情で離れていく。
　ヒッ、と咲は短く息を吸った。両手をだらりと下ろし、その場に棒立ちとなった。

「ここはどこだ？」
　辺りは一様に薄暗かった。天井に当たる部分は仄かに明るい。伸ばそうとする手は緩慢で時間の流れが遅いように感じた。
　咲は全身の力を抜いた。流れに身を任せる。
「場所がわからないのに、ここは落ち着くな」
「そりゃ、そうさ。ここは主の心の中だからね」
　声がした方向を凝視する。人影のようなものが揺れて見える。輪郭が判然としないが背格好は咲に似ていた。
「咲を呼び止めたのは君か」
「そうだよ。初めましてかな」
　笑いを堪えるような声が返ってきた。咲の目付きが鋭くなる。
「僕を睨んでも仕方ないよ。主が本当に憎いのはあいつらだろ？」
「な、なんのことだ」
「あんな幸せそうな顔を見せ付けられたら、溜め込んだ怒りや憎しみをぶつけたくなるよね」
「そ、そんなこと、思っても――」
　咲の動揺は目に明らかであった。
「わかった。僕がその負の力を解き放ってあげる。僕は『メガエラ』、力を行使する者さ」
　すでに咲の身体は揺れていた。深海の底にいるかのようにゆっくりと前へと倒れていった。

　通行人は怪訝な顔を咲に向ける。歩道の中程、目を閉じた姿で突っ立っていた。
　唐突に変化は訪れた。咲の全身が激しく上下して瞼が開く。
「さぁ、主の為にこの感情を爆発させよう！」
　咲は両拳を握り、同時に空に突き上げた。その姿で壊れた玩具のように笑い声を上げる。周囲の目に気付くと、そうだな、と顔に掌を当てて言った。
「リア充を殲滅する前に顔を隠す物が必要だな」
　指の合間から覗く目で適当な物を探す。真っ先に玩具屋が目に付いた。
「仮面のヒーローで悪の限りを尽くそうじゃないか」
　咲は炎のように燃える眼で駆け出した。