何も死守しない普通の一日｜リアクション

何も死守しない普通の一日

　ベンチに座っていた男性は完成した自身の絵を見て驚いた。スケッチブックに顔を近づけたかと思うと、急に引き離す。
　隣にいた月詠はスケッチの手を止めた。
「満足のいく絵が描けたみたいだね」
「あんたの、いや、姉さんのアドバイスのおかげっすよ！」
　男性は大きな身体を丸めて破顔した。
「私は高校生だよ。明らかに君の方が年上だろう」
「俺は大学生だけど、絵では姉さんが大学生っすよ。俺なんか幼稚園児みたいなもんだって、よーくわかりました！」
「君の身なりで園児と言われても、少し想像が難しいね」
　月詠は口の端を少し上げて言った。
　二人の遣り取りが呼び水になったのか。スケッチブックを持った人々が月詠の周りに集まってきた。即興で描かれたような絵を見せられ、挙ってアドバイスを求める。
「私は芸術家の卵なのだが」
「卵先生、僕にアドバイスをお願いします！」
　真摯な目を向けてきた青年の言葉によって月詠は卵先生と呼ばれるようになった。その呼び名に満更でもない様子で出された絵を矢継ぎ早に見て、構図の悪さや微妙なパースの狂いを的確な言葉で指摘していった。
「卵先生、ありがとうございます」
「君は筋が良いから伸びると思うよ」
　最後の一人に声を掛けたあと、月詠は利き手の肩を回すような動きを見せた。
「スケッチブックを持った人が意外といるものだね」
　月詠の呟きを耳にした者達は一斉に向かいの店を指差した。
「ああ、あの文具店で買ったのだね」
「俺と同じっすね！」
　隣の男性が白い歯を見せて豪快に笑った。
　俄かの画家で溢れると、今度はモデル志望が現れた。中には抱き合うカップルもいて、二人の愛を見える形で残したい、と注文まで付けてきた。
　膨らんでいく集団に中年の警察官まで引き寄せた。代表として月詠が事情を話す。
「商売ではありません。通行の邪魔にならないように配慮して、絵を描きたいと思います」
「そうだね。それなら問題ないか」
　そこに智がテナーサックスを首から下げた状態で現れた。警察官の姿を見て強張った表情で立ち止まる。
「君の、その楽器は？」
「やあ、待っていたよ。ちゃんとサックスも持ってきてくれたのだね」
　月詠は智に気さくに声を掛けた。
「知り合いかね？」
　警察官の言葉に月詠は頷いた。
「彼に無理を言ってモデルを頼みました。そうだよね」
「は、はい？　まあ、そ、そうです！」
　智の言動を警察官はつぶさに見た。一時の厳しい表情を和らげて、そうか、と言って背を向けた。
「私はこの一帯を巡回している。次にここを訪れるのは夜になるだろう」
「そうですか。わかりました」
　笑みを浮かべて立ち去る警察官に月詠は頭を下げた。
「あのぉ、僕はどうすればいいのかな？」
「もちろん、絵のモデルをして貰うよ。あの警察官に言ったことが嘘にならないようにね」
「あ、はい。じゃあ、あの、僕でよければ！」
　智は流されるままにモデルとなった。