戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　鞄を持った手を大きく振りながら桃川圭花が道なりにゆく。今日の眼鏡はスクエア型。落ち着きのある黒のセルフレームであった。
　左手に桜花寮が見えてきた。圭花は立ち止まって、そうね、と呟く。ツインテールを横に鋭く振って道路を横断した。目にした脇道を大股で歩いて抜けると、人通りの多い道に出た。
「暇潰しにはいいかもね」
　道沿いにある店を何とはなしに見て歩く。大きな欠伸で圭花は前を向いた。人混みの中に黒いコートを羽織った刻人を見つけた。
　視線が合ったので適当に頭を下げると、笑顔で近づいてきた。
「こんなところで知った人に会えるとは思わなかったよ」
「どうも、買い物ですか」
「そんなところだね。チェーンを磨く物を探していてさ」
　刻人は首から下げたチェーンを摘まんで見せた。圭花は関心の無さそうな顔で頷いた。
「このチェーンは僕の妻の贈り物で、部屋の掃除をしてたら偶然に出てきたんだよ。そうだ、君に妻の写真を見せたことってあったかな。これがそうなんだけど」
「そんなに大切な物なら早く磨いた方がいいわね」
　圭花は突き放すように言った。そうだね、と刻人は笑顔で返す。
「やっぱりスーパーまで行かないといけないのかな」
「スーパーよりはコンビニでしょ」
「え、そうなんだ。助かったよ。妻の写真は今度にするね」
　刻人は柔らかい笑みで雑踏の中に消えていった。圭花は少し背中を曲げて溜息を吐いた。
「静かなところがいいわね」
　圭花は人の少ないところを選んで歩いた。

　喧騒が遠のいた。洒落た店は無くなり、古い町並みに取って代わられた。年配者の姿が多く見られる。緩やかな歩みの中に圭花は溶け込んでいった。
　古い建物の中に紛れて玩具屋があった。今時、珍しい引き戸で陳列棚には不揃いの大きさの商品が詰め込まれていた。
　圭花の歩みが遅くなり、くるりと店の方に向いた。棚の低い位置に銀色の物体が置いてある。包装等は無く、剥き出しの状態なので商品ではないのかもしれない。
　興味を引かれた圭花は玩具屋に立ち寄った。棚の端にあったのはハートの形をしたケースであった。
「……懐かしいわね」
　頭の中に呪文が聞こえる。小さな頃の自身の声に圭花は耳を澄ませた。

　部屋の中央でハートのアクセサリーを手にした圭花が呪文を唱える。テレビアニメのヒロインと同じようにポーズを決める。表情は自信に溢れ、変身した状態となった。
　圭花は急いで机に向かって宿題を始めた。答えを書き込む鉛筆は滑らかとは言えないものの、本人の鼻息は荒い。じっくりと時間を掛けて終わらせた。
「できた！　変身のおかげだね！」
　赤い頬っぺたで圭花は笑った。
　ハートのアクセサリーは強い味方であった。どのような苦しい時も一緒にいて圭花を支えた。応えるように本人も努力を惜しまなかった。
　ある日、その関係が壊れた。ハートのアクセサリーを無くしてしまったのだ。二人の姉や妹も同じ物を持っていた。圭花は譲ってくれるように懸命に頼んだが、願いは叶わなかった。
　ゆっくりと萎れる花のように圭花は俯いた。姉妹は優秀でよく比べられた。悔しくて涙が出そうになると決まって同じことを口にした。
「だってハートがないんだもん」

　圭花は回想を打ち切った。自身の胸に握り締めた拳を強く押し当てる。
「私のハートはここにあるよ」
　棚に取り残された形のハートのケースを見下ろす。真剣な目で見て急に表情を緩めた。
「私には、もう必要ないわね」
　子供の頃に夢中になった呪文を、そっと呟く。自信に満ち満ちた表情となり、力強い足取りで店を離れた。
　圭花のハートは無くなっていなかった。どのような未来の姿にも変身できる、強いハートを秘めていた。