戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　鴻上彰尋はひっそりとした家に帰り着く。ただいま、と玄関で呟いて奥へと足早に向かう。
　食卓の椅子に鞄を置いた。制服を脱いで背もたれに引っ掛ける。歩きながらシャツの袖を捲り上げてキッチンの前に立った。溜まった食器を慣れた手付きで洗い始めた。
　半分ほど洗い終わったところで、ただいまー、と玄関の方から二つの声が飛び込んできた。騒々しい足音が加速して家の中を駆け回る。
　彰尋は洗う手を止めずに言った。
「将尋、それと千里。帰ってきたら手を洗えよ」
　元気の良い返事が重なって聞こえた。数秒の静けさをけたたましい笑い声が打ち破る。二人は突風のように家の中を走り回った。
　彰尋は泡の付いた食器を洗い流し、水を切るような動作で洗いカゴに収めていく。最後の皿を僅かな隙間に差し込んだ。タオルで丁寧に手を拭くと居間に移動した。
「あれ、いないな。外に遊びに行ったのか」
　耳を澄ますかのように動きを止めた。騒々しい音は聞こえて来ない。視線を下げるとテーブルには古めかしい本が置いてあった。
「台本みたいだけど、見たことないな」
　裏返しになった台本に折り目がないかを確認した。
「大半は俺が引き取ったけど、これもじいさんの遺品なんだ。もう少し大事に扱ってもいいだろう」
　玄関の方に愚痴を零し、持っていた台本を表に向けた。書かれた表題に目が釘付けとなった。真剣な表情で頁を捲って、これは、と声を漏らす。
「やっぱり、そうだ。この台本はあの時のものだ」
　掲げた台本に蛍光灯という、ささやかなスポットライトが当たる。

　彰尋は祖父の横に座って舞台の幕が上がるのを待っている。足をブラブラと揺らし、周囲の様子を詰まらなそうな顔で眺めた。
　開始を告げるブザーと共に辺りは暗くなって静かに幕が上がった。彰尋の足の動きがぴたりと止まる。舞台の鮮やかな色が目を惹き付けた。躍動感に溢れる役者の動きに顔が振られる。迫力のある台詞には怯えた表情となり、滑稽な場面では祖父と一緒に声を上げて笑った。
　時間を忘れて舞台を楽しんだ。明るくなっても意識の半分は夢の中にいた。祖父は満足そうな表情で、待っていなさい、と声を掛けて席を離れた。
「……あれ、いない？」
　祖父を目で探していると戻ってきた。手には一冊の本を持っていた。笑顔で渡されたのは今日の舞台の台本であった。中に書かれた台詞を目にした瞬間、舞台の興奮を思い出したのか。彰尋の頬が瞬く間に赤くなった。

「じいさんが亡くなって処分されたと思っていたのに。俺の世界を変えてくれた、あの台本が今になって出てくるなんて――」
　彰尋の頬がほんのりと染まる。宝物を手にしたかのように台本を胸に抱えた。
　ただいま、と玄関で二度目の声がした。将尋と千里の二人は大きく腕を振って居間に入ってきた。
　彰尋は少し厳しい表情で迎える。
「元気なのは良いけど、この台本は祖父の遺品で大切な物なんだ。もう少し大事に扱って欲しいな」
　将尋は珍しい物を見るような目になる。すぐに隣の千里に顔を向けた。
「千里は知ってる？」
「見たことない」
　ブンブンと頭を振った。二人は不満そうな顔で彰尋を見上げる。
「え、二人とも知らない？　じゃあ、この台本は一体どこから」
　探し物をするような目が箪笥の上の写真立てに向かう。祖父と幼い彰尋が山を背景にして写っている。
　祖父の笑顔が過去の舞台の場面と重なった。
「……ありがとう」
　思わず出た言葉に、なにが、と二人がせがむように聞いてきた。返答に詰まった彰尋はぎこちない笑みで言った。
「元気な二人に『ありがとう』って言ったんだよ」
「どうして？」
　千里の言葉を受けて将尋も首を捻る。
「そういう気分なんだ」
　写真立ての祖父を横目で見ながら彰尋は穏やかな表情で言った。