戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　部屋のスイッチを入れた。白い明かりの中に無人の机が整然と並ぶ。白衣に身を包んだ深倉理紗子がショートの髪を弾ませて歩いた。宛がわれた机に着くと一息入れる間もなく作業を開始した。
　画面に向かって連絡事項に目を通す。午後の外来に関連した調べ物に追われ、大まかな治療方針を決めた。患者の体調に左右される場合に備えて代替え案も幾つか用意する。
　ゆっくりとした靴音が近づいてきた。理紗子が顔を上げると白髪交じりの男性医師が肩を揉みながら入ってきた。
「おはようございます」
　立ち上がろうとした理紗子を医師が手で止めた。眼鏡の奥の目が優しく笑っている。軽く頭を下げた理紗子は作業の続きに戻っていった。
　何人かの医師と朝の挨拶を交わし、時刻は七時半を回った。理紗子は画面を閉じて立ち上がろうとした。肘が積み上げた書類の側面に当たる。幾つかの書類は胸に抱えたが全てを受け止めることはできなかった。
　床に散乱したファイルを慌てて拾い集める。そこに一本のペンを見つけた。訝しげな目が徐々に驚きに変わる。拾い上げる指が微かに震えた。全体を回すように見て指に挟んだ。
　じんわりと目に涙が溜まる。痛みを伴う甘い記憶が蘇ってきた。

　自室の机に向かった理紗子は真新しいペンをノートに走らせる。大学で与えられた課題を着々とこなす。深夜の時間帯に差し掛かっても手を休めることはなかった。
　優しく肩を抱かれると集中が途切れた。理紗子は顔を横に向けた。
「お姉ちゃん、いつの間に」
「ちゃんとノックをしたのだけれど。あまり根を詰めると身体に悪いわ」
「わたしの心配はいらないよ。お姉ちゃんに大学祝いに貰ったペン、とても書き易くて疲れないし」
　そう、と姉は微笑んだ。理紗子の頭に手を当てて自身の胸に軽く押し当てる。片手で抱き抱えたまま、穏やかな時が流れてゆく。
　理紗子は姉の胸に自ら顔を押し付けた。
「……わたしはもっと、勉強をがんばらないと、いけないから」
「十分、がんばっているわ」
　姉は理紗子の頭を撫でる。ペンが手から離れた。
「お兄ちゃんと、お姉ちゃんに……負けないくらいに、がんばらないと、いけないから」
「兄と姉が優秀で、比べられるのが辛いのね」
　胸に顔を埋めたまま、理紗子は頷いた。頭を撫でる手が更に優しくなる。同じよ、と言葉を掛けて姉は離れた。
　部屋を出て行く前に笑みを湛えて振り返る。
「気持ちはわかるけれど、程々にして眠りなさい。身体の方が大切よ」
「ありがとう」
　赤くなった目で理紗子は精一杯の笑顔を浮かべた。

「手伝いましょうか？」
　背後から掛けられた言葉で回想が途切れた。理紗子はファイルの束を手にして慌てて立ち上がる。大丈夫です、と明るく返した。必要な書類を胸に抱えて一礼すると、逃げるように部屋を出た。
　通路を歩いていると、目に溜まった涙が堪え切れずに零れ落ちた。前方に人の姿を認めて横手のトイレに避難した。
　中に人はいなかった。洗面台の横にファイルを置いた。白衣のポケットから一本のペンを取り出し、頬に強く押し当てた。
「三年前に、お姉ちゃんと……一緒になくなったのに……帰ってきて、くれたのね」
　ペンは流れる涙に塗れた。
　一頻り泣いたあと、理紗子は乱暴な手付きで顔を洗った。鏡の中の自分と向き合う。酷く沈んだ顔をしていた。
「……情けない顔」
　ハンカチで顔を拭いて背筋を伸ばす。口角に力を入れて笑顔を作った。
「え、お姉ちゃん！？」
　一瞬、記憶の中の姉と重なって見えた。そうか、と理紗子は納得したような声を出した。
「わたし、お姉ちゃんと同じ、二十七才になったよ」
　自然な笑みで鏡に話し掛けて通路に戻った。白衣の胸ポケットにはペンが差してある。歩きながら手を当てた。
「もう、なくさないわ」
　理紗子は前を見て揺るぎない声で言った。

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