戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　星ヶ丘寮の一室。夜を迎えてレースのカーテンが開けられた。青いイブニングドレスを着た桜月が窓辺に立つ。故郷を懐かしむような赤い瞳で月を眺めた。長くて白い髪は月光を浴びて輝いて見える。
「良い夜だ」
　月はイーゼルの前に戻った。スケッチブックには秋の装いに身を包んだ女性のデザイン画が描かれていた。力強く歩いている一瞬を切り取って躍動感に溢れている。
　完成した絵はスケッチブックから切り離された。枯れ葉のように舞い落ちて床に散らばる一枚に加わった。
　真っ新な画用紙に向かった月は腕を組んだ。
「次はキャペリンに合う服でも――」
　言葉が切れた。月の目は別の方向を見ていた。引き寄せられるように足が動く。片足を軽く曲げて一枚の絵を拾い上げた。
「これは……私の絵だ」
　洋服を着た人形が静かな眼差しで佇んでいた。遠い記憶が手の届くところまできて月はそっと手を伸ばす。

　祖父の描いた絵が部屋に飾られている。憧れの目で見ていた子供の月は想像を膨らませて楽しんだ。それだけでは物足りなくなり、何時しか色鉛筆を手に取って独学で描き始めた。
「描けたよ」
　完成した絵は決まって祖父母に見せた。二人は目尻の皺を深くして喜び、大きな手が頭を撫でてくれた。
　月は張り切って絵を描いた。順調に枚数を重ねて、ふと手が止まってしまった。完成した絵を膨れっ面で見て、なんか違う、と言って投げ捨てた。
　その日から祖父は絵の先生となった。一緒の部屋で肩を並べて描く。風景画の多い祖父に倣って月は父母とピクニックに出掛ける様子を描いた。
「どうかな」
　祖父に見せると、構図でやんわりと指摘された。クロスハッチングの手本には目を丸くして、すごい、と拍手を送った。実際に試して出来ると自身に向けても手を叩いた。目に見える上達に日増しに士気が上がっていく。
「今日はなにを描こうかな」
　祖父の元を訪れた月は、いつものようにスケッチブックを開いた。頭に浮かんだモチーフを声に出す。すると祖父が好き嫌いの二択の質問をしてきた。
「風景画は嫌いじゃないけど、人がいる方が好きかな」
　その答えに祖父はゆっくりと頷く。次は家の内装と飾ってある絵について聞かれた。
「外国っぽいものに興味あるかも。絵は白いドレスを着た女の人がきれいでステキって思ったよ」
　心地よい音楽を聴くかのように祖父の表情は和らいだ。すっと椅子から立ち上がると部屋を出ていった。
　戻ってきた祖父に月は大きな声を上げた。
「とっても大きなお人形さん！　洋服がステキ！　ふわふわで、わかった、お祖母さまの手作りでしょ」
　祖父の笑顔は正解の証であった。
　月は夢中になって描いた。人形の微妙な表情を読み取って画用紙に再現させる。洋服の細部を丁寧に描き込み、小指の側面が擦れて黒ずんだ。
「できたよ！」
　月は完成した絵を掲げた。技術的な進歩はあまり見られないものの、得られた満足感で笑みが零れた。側で見ていた祖父も会心の笑みを漏らす。

　月は我に返って絵を見つめた。
「デザイン画を描く切っ掛けになった一枚か……」
　床にはたくさんの絵がある。描いたデザイン画で溢れている。何枚かは友人に似ていて月は少し笑ってしまった。
「最初は祖父母の意図がわからなかった」
　手にした絵に目を落とす。立ち尽くす人形の表情はどこか暗く感じた。
「今は寝子島にきて、良かったと思う」
　机の上の絵に目をやる。祖父母に挟まれた月が描かれていた。周囲の余白には未来の親友が祖父の手によって描かれることになっている。
「……いつかきっと」
　月は絵を優しく胸に抱いて呟いた。