戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　八神修は勉強部屋の本棚と向き合う。足元には整理の為に出された本が積み上げられていた。新しく購入した本も相当の高さを誇る。
「この本はここだな。これはそちらか」
　判断は一瞬で丁寧に本を収めていった。精密な機械を思わせる動きで最後の一冊、鉱物辞典を手に取った。
　空いた隙間に眉を顰める。
「どうしてだ？」
　辞典を隙間に押し当てた。角度を変えても入らなかった。
　修は大きく一歩を退いた。問題のあった一列に目を走らせると、すぐに原因は見つかった。
「あるはずがない」
　分厚い本に両側を固められ、肩身の狭い思いをしている英和・和英辞典に指を掛けた。くたびれた装丁に古さを感じる。何回も捲った跡が茶色く残り、中には金属製の薄い栞が挟んであった。
「間違いない。亡くなった実母が買ってくれたものだ」
　頁を捲っていると所々の単語に赤線が引いてあった。余白の部分には発音記号の意味が掻い摘んで書かれていた。
「母の綺麗な発音は、今でも耳が覚えているよ」
　笑みを浮かべて目を閉じた。

　幼い顔立ちの修が和室に置かれたテレビを夢中になって観ていた。英語の発音を耳にすると、それらしい言葉で復唱した。英語の綴りは開いたノートに急いで書き写す。形は似ているが読み取れるようなものではなかった。
　そのような我が子に母親は辞書を買い与えた。
「ありがとう」
　興奮した様子で受け取ると早々に頁を捲った。難解な漢字にはルビが振ってあるので読むことは出来た。歌うように音読する我が子に目を細めつつ、母親は辞書の引き方を教え始めた。
「わかったよ」
　和室は英語の教材で溢れている。修は時計や花瓶を目にしては辞書で引いた。そこに立ち塞がったのが発音記号であった。母親に読み方を教えられても上手く発音が出来なかった。
「ゆっくりでいいのよ」
　母親の青い瞳に修は、はい、と元気に答えた。
　それ以降、和室は英会話教室の様相を帯びた。母親は先生となり、綺麗な発音で語って聞かせた。修は目と耳を使って懸命に学んだ。苦戦していたＬとＲの発音を褒められた時には嬉しさのあまり、涙ぐんでしまった。

　恥ずかしい思い出に修は照れ笑いを浮かべた。
「母が病死して、遺品も何も持って来れなかったはずなのに――」
　修は辞書に語り掛ける。本棚には戻さずに机に向かった。引き出しを開けて一冊のアルバムを取り出した。
「これで昔の思い出の品が二つになったな」
　アルバムを開いた。懐かしい写真が収められている。矢継ぎ早に頁を捲り、一枚の写真で手を止めた。
「母さん、上達しましたよ」
　金茶の髪に澄んだ青い瞳を持つ女性に語り掛けると、修は手にした英和・和英辞典を開いた。赤線が入れられた単語を次々に読み始めた。
　流暢な英語を亡き母親に捧げた。
「どうでしたか」
　読み終えた修は写真に問い掛け、優しい笑みで頷いて見せた。答えは胸の中にあるのかもしれない。
　修は辞書を慈しむように撫でて、学校に持っていく鞄の中に入れた。
「明日になっても消えないで欲しい」
　本棚には様々な辞書が並べられている。小型の辞書の出番があるようには思えない。
「俺には必要なものなんだ」
　本棚には一瞥もくれず、修は口にした。

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