戻ってきた記憶｜リアクション

戻ってきた記憶

　だぶだぶのモスグリーンのパーカーを着た津田亮悟が気だるげに道を歩いていた。同じ方角に向かう小学生はランドセルを激しく揺すって走っている。中の何人かは、遅刻するよ、と亮悟に声を掛けた。
「てめぇには関係ねぇだろ」
　身体を斜めに構える。左頬から首筋に掛けて広がる火傷を見せ付けた。何も言えなくなった相手は目を伏せて走っていった。
「チッ、面倒くせぇな……」
　パーカーのポケットに両手を突っ込んでだらだらと歩く。
　一瞬、受けた光で左目が細まった。電信柱の近くに角張った物が落ちていた。進行方向もあって亮悟は近づいていった。
「焼け焦げたライター？」
　足を止めた先でしゃがみ込む。銀色のオイルライターは表面を火で炙られたような痕があった。左手で拾い上げて手の中で弄り回す。表面が鋭利な刃物のようにギラリと光った。
　瞬間的に左目を手で押さえた。眩暈にも似た感覚に襲われているのだろうか。軽く頭を振って目を閉じた。

　風で窓がカタカタと震える。殺風景な部屋には侘しさが漂っていた。壁際に置かれた小さなテレビは子供向けの番組を垂れ流している。幼い顔立ちの亮悟は膝を抱えて観ていた。明るい声に合わせて自然に頭が上下に揺れる。
　番組が終わりを迎える頃、別の声を聞いた。低い早口で言葉の意味は聞き取れない。亮悟は後ろを振り返った。
　一人掛けのソファに深く腰掛けた女がいた。髪は少し乱れている。着ているワンピースは薄汚れていて皺が目立つ。手には銀色のライターを持ち、頻りに小声で語り掛けていた。
　亮悟は何も言わないでテレビの画面に戻った。踊っている子供達と同じ笑顔で頭を左右に振った。
　背後で大きな音がした。亮悟は身体ごと向きを変えた。
　ソファが倒れていた。女は右手にライターを持った姿で立っている。左手にはドロップ缶のような物を持ち、足音をさせないで近づいてきた。亮悟は座った状態で後ずさる。
　女は首を傾げて笑った。亮悟は強張った笑みを返した。
「いい子ね」
　女は缶を口元に持っていく。前歯で蓋を開けると真横に吐き捨てた。笑いながら缶の中身を浴びて周囲にも撒き始めた。
「最後は」
　残りを亮悟に浴びせた。掛かった液体は左頬を伝って肩まで流れた。鼻を突く臭いに激しく咳き込んだ。
　女は持っていた缶を壁に投げ付けた。けたたましい笑い声を上げながら迫ってくる。亮悟は立ち上がろうとした。女の左手が襟首を掴んで床に押し倒した。
「や、やめて」
　振り払おうとした両腕に女の膝が乗る。瞬く間に床に貼り付けられた。
「いいわよね？」
　女はライターをゆっくりと降ろしてきた。逃れようとして仰け反るとテレビの画面が見えた。大人に混ざって小さな子供達が笑顔で手を振っている。
　亮悟は女を見た。深い笑みを近づけてきて、バイバイ、と言った瞬間、炎に身を包まれた。
　人型のロウソクは絶叫した。

　亮悟は勢いよく立ち上がった。記憶の中の叫び声が自身の声のように思えた。軽く頭を振って足元に落ちているライターを見つめた。弱々しい目のまま、無言で拾った。
　記憶の中の女と同じように右手に持つ。手が微かに震えた。素早くパーカーのポケットにライターを押し込んだ。
　亮悟は学校への道を全力で走った。似たような境遇の小学生を目にした。安堵したような笑みが浮かぶ。
　走りながらポケットに手を入れた。途端に笑みが消える。
「……きっと、意味があるんだよな」
　ポケットの表面が拳の形で丸みを帯びる。揺れる目には微かな光が宿っていた。

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