エイプリル・ウール｜リアクション

エイプリル・ウール

●シープ・ビパップ

　――桜台墓地の横を流れる、桜川。
　そこに架かる橋の上で、市橋誉は乗っていた自転車のブレーキを掛けた。車輪から、少し軋んだ音が鳴る。
（羊や、羊や、羊さん……あなたのお家は）
「動物園、っと」
　ねずの湯と桜台墓地が同時に見えるこの橋の名前を、市橋は知らない。しかし、そこから見える山の名前は知っていた。
　九夜山。恐らく寝子島に住んでいる者でこの山の名前を知らない人間は居ないだろう、と思う。市橋は、動物園から未だに逃げ続けている羊のニュースを見て、自分も出来るだけ協力しよう。と、朝の登校時間を利用して羊の捜索をしていた。しかし今は、それだけではない。
　登校中、偶然にも自転車のチェーンが外れ、道の脇で停車した際に小耳に挟んだ話も、市橋が羊を探す目的の一つとして心の片隅に置かれていた。
　話をしていた二人――八神と滝野は、このことに気付いていなかった。そして市橋もまた、この二人については深く考えなかった。ただ、浅くない事情がありそうな雰囲気だけは感じている。
「さて……まずは、この辺りからだな」
　ペダルを踏んで、進む。暖かい風が頬を撫で、気持ちいい。少しだけこのまま、うたた寝でもしたら気持ちがよさそうだな、と考えながら視線だけはしっかりと羊を探していた。
　日陰を見るのは程々にして、明るい場所で羊の餌になりそうな草が多い箇所を見ていく。すると、五分ほど走った辺りで視界の隅に、茶色い塊が横切った。
　しばらくそのまま走り、駐輪場を見つけると自転車を止める。鍵を掛けて小走りで戻った後、背伸びをして覗き込むように草むらを見た。
（……いた……本当に、羊だ）
　絵本やイラストで見るような白ではなく、コーヒー牛乳のような茶色の羊を見ながら、市橋はゆっくりと鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出す。時折、羊を見ながらスケッチブックに鉛筆を走らせた。
「完成、と」満足げに、微笑む。
　しかし、描きあがった絵は羊でも風景画でもなく、一組の鍵盤だった。
　スケッチブックが微かに揺れ、描かれた線がスケッチブックから浮き出て、線が前後左右に交錯する。そしてそれはやがて実体を伴った触れられる鍵盤となって市橋の目の前に現れた。
　市橋のろっこん、『奏でるもの』だ。現れた鍵盤を静かに撫でて、羊に視線を向ける。
（上手くいくかな……？）
　短く息を吸って、鍵盤に指を置き、力を込める。軽やかな単音が辺りに広がり、空気と混ざった。その音を聞いて、羊が振り向く。
（よしよし……聞こえては、いるんだな）
　若干の手ごたえを感じて、市橋はそのまま曲を奏で始める。春にピッタリの柔らかな音色を選ぶと、鼻をヒクヒクとさせながら羊が寄ってきた。
「ヘベェ～ンベェ～ェ～」
　音色に合わせて鳴いているのか、羊は市橋の足元まで近寄ってきて、脛に軽く額を当てた。
「ベェ～メェ～」
「……ん？」
　リズムの合間を縫って鳴く羊を見て、鳴き声に合わせながら即興で指を鍵盤に走らせた。ゆっくりではあるが、首を揺らしながら羊は満足げに声を上げている。
　暫くそのまま、羊の声と自分のピアノで重奏を楽しんでいたが、目的を思い出して軽く頭を振った。
（さぁ、ここからだ。このまま……移動、出来ないこともないけど）
　曲を弾き続けながら羊を連れて歩く。まるで笛吹き男みたいだな、と昔読んだ話を思い出して、小さく笑う。その拍子に、一つだけ音を外してしまった。
「ベェ～ムェ」
　羊が少しだけ不満そうに鳴いた。