辻投げ少女（詠宏美）は七峯亨の姿を探していたのですが、ここで新たな強敵の予感に足を止めました。
「辻なげ　なんだそれ　なんだそれ」
　彼女は、それこそ羽根のように、軽やかにその場に舞い降りたのです。
　実際に翔んできたわけではないのですが、そんな風に見えるほど、ふわりと姿を見せたのでした。
「強いか？　わからんか」
　そうして彼女は、宏美に向かって満面の笑みを見せたのです。
「シンチャオ　強い奴　おのぞみか？
　きたぞ　シダ　こられた」
　シダ 美穂戸の登場です。
　緋色に染めた髪、瑠璃色の瞳、旧友に会いに来たかのように、にっこりと挨拶します。
「とれだけ　つよいか　たしかめてやろう　シダ」
　そうしてシダは流れる水のように、ベトナムの格闘技『ボビナム』の構えを取ったのです。
　ただ者ではないとすぐに悟ったのでしょう。宏美は気合いを入れるべく声を上げて、前傾姿勢の構えに入りました。打撃主体の空手ではなく、投げ技で挑む心づもりのようです。
「投げ技　ためしたいのか　投げ技　むずかしい」
　シダは変わらず笑顔ですが、それでも声色にいくらか緊張が混じりました。
　投げ技主体の相手は、シダにも対策が取りにくいものがあります。どちらかと言えば苦手なのです。つかんでも外されればそれまでで、後の技にもつながりません。華麗な連続技を得意とするシダにとっては、リズムが乱されがちな相手はそれだけでやりづらいといえます。
「ボビナム　やろう　ボビナム」
「何を言っている？　ボビナム？」
「ボビナム　ベトナムの　総合武術
　武術によって　心身ともに　励まし　鍛える」
「そういう教育的なものに興味はない！　かかってこい！」
　それを聞いてシダは、悲しげに首を振りました。
「わかってないな　おしえてやろう　シダ」
　と、ラー（礼）を見せ、
「モッ ハイ バー ボン」
　シダは仕掛けたのです。
　ドン、これは『突き』を意味します。空手の突きよりは軽いかもしれませんが、速度が凄まじい。宏美はカウンターどころではなく、受け流すのが精一杯でした。
　チェム、『手刀』です。鋭さはまさしく刃、ボビナムは型が非常に複雑で多様なところに特徴があるのですが、シダのそれは機械のように正確でした。鞭で打たれたかのよう。完璧に当ててきます。ガードした宏美の肘が破裂音を立てました。
　ダッ、『蹴り』です。やはり正確で、ともかく重い。本能的に膝を立てて防いだ宏美ですが、その強烈な圧によろめくのです。
　さらにシダから肘が来ます。まったく予想のつかぬ攻撃に、宏美はこれを喉下にまともに喰らって
転倒しかかりました。
　これが「モッ（１） ハイ（２） バー（３） ボン（４）」の四連打、稲妻のような連携でした。
「クッ……！」
　一方的にやられ続けた宏美ですが、ここで反撃の牙を剥きます。
　袖を取りに行きます。胸ぐらを掴みに行きます。
　ところがシダのほうが一枚上手、
「手　はらえない　角度
　相手　動き
　次　動き　とらえろ」
　と、すべて弾いてしまいました。
　ならばと空手にスイッチして宏美は、上段、中段と蹴り分けますが、
「相手　丸太ちがう
　勝手　動く
　けど　わかれ」
　言いながらシダはいずれもあしらって、
「軸足　動き　よく見ろ
　筋肉　動き　感じろ
　相手　呼吸　あわせてから
　くるわせろ」
　逆襲。むしろ足技はシダの得意中の得意、宏美の弱いところを次々とついて一方的に攻め立てるのです。
　それでも宏美とて意地があります。しなる青竹のようなシダの蹴りが、汗で滑ったのを好機ととらえ、ついにシダの襟を取ったのでした。
「キエエエエッ！」
　投げ飛ばす――腰を入れた瞬間に宏美は勝利を確信しました。
　投げ技の優位はその破壊力にあります。道場での試合ではなく屋外ならば、地面に叩きつけるだけで相当なものがありますし、石の上に落とそうものなら、一撃で相手を沈めることもたやすい。
　この相手（シダ）は投げ技には素人、短い攻防で宏美はそう読んでいました。ならばこれで……！
　ところが、
「なんでも　かんたんなこと　ない」
　その一言とともになんと、シダは地を蹴り両脚を宏美の胴に絡めたのです。カニばさみの要領、
「かんたん　しようと　するな
　やりにげ　するな」
　そこからぐいと捻って宏美の体勢を崩すと、さらに回転を加えて彼女を、地面に這いつくばらせました。
　さらに、
「はじめたこと　ゴール　めざせ！」
　ぱぁん、と爆発するような強烈な、蹴り！

　打ち上げるように足の甲を使いました。宏美の体は伏せた「Λ」の形に曲がります。
　宏美は呼吸が詰まります。息ができなくなると涙が出てくるもの、ぜはぜはと空気を求め喘いで、それでも顔を上げシダを睨みました。
　しかし、シダが返したのは笑顔でした。勝って傲らず、
「罪をにくんで　人をにくまず　ここまでだ
　これにこりたら　もうわるいこと　するな」
　と頭を下げてラー（礼）をしたのです。
「強くなりたい　きたえたいなら
　シダのお店　裏　ボビナム道場　こい
　いつでも　歓迎する」
　そうしてシダは、「チュックマイマン（幸運を）」と言い残してその場を去ったのでした。
　完敗した悔しさからか、それとも、七峯亨、シダ美穂戸と立て続けにあった運命的な出会いに打たれたのか、詠宏美は顔を上げません。
　しばらく彼女は、地面に伏せたまま動かずにいました。