月のお散歩｜リアクション

月のお散歩

「うーん」
　腕組みをしつつ、針ヶ谷夕市は月面を浮遊していた。
　その視線は、宙の一点をとらえたままだ。
　思慮深げで、その実何も考えていない、そんな表情。

　ヘルメットの中で、寝癖のついた茶色の髪が揺れる。
　ぼんやりして、つかみどころがない。何を考えているのかいまいちわからない……そう評されることの多い風情は、月面でも変わらなかった。
　光を帯びた青い地球。
「……んー……月？」関心が、一瞬浮上しそうになるも、またずぶずぶと沈み込んでしまう。「よくわからないけど、まあいいか……」

　そんな夕市の生命維持装置ケーブルが、ぐいと引っ張られた。

「おーい、これってどういうことかわかるか？」

　いきなり現実に引き戻され「え？　え？」パニックに陥る夕市。
　彼のヘルメットをぐっと覗き込んだのは、眼鏡にショートの女の子。
　木野聖華というのが、名前である。

「……んだコレ？」
　いきなり月面に宇宙服付で連れてこられた聖華。
「どうなってんだ、この世界……」
　とりあえず近くの奴に適当に聞いてみるか、と、ふよふよ浮かんでいた夕市を引っ捕まえたわけなのだが……。

　あたふたする夕市を見て、聖華は思い直す。
（初対面じゃ、ビックリされて当然じゃね？）
　ぶっきらぼうなところがあるのは自覚している。いきなりの月で焦ったところがあった。まずは自己紹介といくべきだろう。
「自分は２－８の木野っつー奴だ、お前は？」
「え……えーと」咄嗟に反応できない。「針ヶ谷……夕市……」

「おっ！」夕市の名を聞いて、聖華の顔がぱっと輝く。「針ヶ谷か！」
　ぶんぶんと、まるで旧知の仲のように腕をつかんで振り回す。
　その度に、夕市の全身が上下に揺らぐ。
「うんうん、噂は聞いてる！」
「噂……」瞳の焦点が合っていく。「噂なのか、オレ？」
「いろんなところに絵を描く、スゲー奴！」
「ほう」そんなふうに言われて、悪い気はしない。
「付いたあだ名が『落書きヘッジホック』！」
「ヘッジホック……」夕市がガクッと項垂れる。「えー、オレ、そんな呼ばれ方されてるんだ……」
　確かに寝癖のついた、針山のような頭を『ハリネズミ』とは、言いえて妙である。
「それよりさ！」困惑も忘れ、すっかりテンションが上がっている。
　芸術科に所属し、ドラムの演奏では寝子島高校指折りと言われる聖華、おなじアートを志す者と出会えて、高揚せずにはいられない。「今って、絵が描けるか？」
「絵……？」夕市の瞳が、収縮したり拡散したりを繰り返す。「絵か……」

　聖華の言葉が、湿り切った心に、火種を投げ込んだ。

「どんだけスゲー奴か、描いてるとこ見たかったんだよ！」
「……」一瞬引き締まりかけた夕市の顔が、再び弛緩する。「……んー、今はちょっと『降りて』こない」
　のらりくらりと答える。
　しかしその答えは、聖華の心に火を付けた。
「よし！」夕市をひっつかみ、駆け出す。「ちょっくら、さがしてみるか」
「……ん……」急に引っ張られる夕市「ちょっ……！！」

　月面！
　この神秘の世界なら、ふさわしいカンバスが、きっとあるはず！
　瞳をキラキラさせて、爆走する聖華。
　引きずられるままの夕市。

「……！！」

　月面山脈を駆け下り、峡谷を飛びこし、無人の荒野を駆ける。
　卒塔婆の様な石柱にゴスゴス激突する夕市。

　しかしその夕市は、宙の一点を見詰めたままだ。