寝子島大橋をわたって｜リアクション

寝子島大橋をわたって

　小田原市内の気温は、日が高くなるにつれて一気に上昇した。
「ぐああ、あっちーしだりーし、何よりハラ減ったし……」
　獅子島市子は、入用でなくなった上着をずだ袋に押し込み、Tシャツ一枚になる。日中はこれで十分そうだ。
「土地勘もねーし、ちょいとぶらついてみっか」
　駅前にバイクをとめ、市子は歩き出した。小田原城を目印にしておけば迷うこともないだろう。後から思えば、それが油断だった。
「……迷ったし。マジ今ドコ？」
　見知らぬ町で不安にかられ、ついスマホのGPS機能のことも忘れてしまった。
「ミョーに人気もねーし。なぁ、駅はどっちか知らねーか」
　目があった野良猫に、道を尋ねてみる。だが、猫は一声鳴いて逃げ出した。
「あ、おい、オマエ」
　市子は後を追ったが、逃げられた。気づいたときには、時間の流れの止まったような奇妙な空間にいた。
「なん……だ？」
　世を憚るような狭い路地。和と洋が混在した古い家屋。
　―――戦前は遊郭、戦後はカフェ街として栄えた旧抹香町界隈に自分がいることを、市子は知らない。
「寂れてんな……戦前からあるんじゃねーか」
　今は営業していない旅館の看板を見て、市子はひとりごちた。戦前や終戦直後のおもかげをまだ残しているように思える。
　どの建物も薄汚れ、傷んでいる。廃墟も多い。それでいて、碁盤目状に整備された町並み。カラーではなく、セピア色の写真の中に収まっている方がふさわしい風景が続く。
「なんつーか……スゲーな」
　空間を支配する奇妙は背徳感の正体はなんだろう。市子は夢遊病のように彷徨う。いつしか空腹のことも忘れていた。時間の観念も、とうに失われていた。

　御巫時子は、横浜のカップ麺博物館にいた。1学期の遠足で訪れたのを思い出したのだ。時子は、あの時引率していた五十嵐尚輝の顔を思い出す。
（僕は野菜が苦手で……）
　多彩なカップ麺を紹介する展示を前に、そう言っていた五十嵐。今日も、たぶん健康的な食事を摂っていないだろう。
「今度は、野菜を補うことをもっと考えて、お弁当を作りましょう」
　時子は、建物３階にあるオリジナルのマイカップ麺が作れるブースに足を運んだ。あの日も、五十嵐と一緒にカップ麺を作ったのだ。また、作ってみよう。
　五十嵐が作ったものと同じスープと具材を選ぶ。スープは４種類から、具材は11種類から4つの組み合わせを選べる。多彩な組み合わせになるが、時子は五十嵐のカップ麺を正確に覚えていた。海鮮スープにチーズ3回、それにエビ。
（ピザでは見られる組み合わせですが、カップ麺では見られないので）
　実験一筋の五十嵐らしい言葉だった。
　時子は、蓋に今日の日付を書く。あの日のカップ麺、とても美味しかったですよ。なので、また作ってしまいました、先生。これは、五十嵐先生へのお土産にしますね。覚えていらっしゃるかどうかは、わかりませんが―――

　あの時は五十嵐と一緒にいられるのが嬉しくて、展示のことはあまり頭に入っていなかったことに今になって気付く。日本が世界に誇る偉大な発明、カップ麺。時子は、改めてゆっくり館内を回ってみることにした。